教皇フランシスコ、神のいつくしみの主日のミサで 2020年4月19日  教皇フランシスコ、神のいつくしみの主日のミサで 2020年4月19日  

教皇「神のいつくしみは、取り残された者を見捨てない」

「神のいつくしみの主日」、教皇フランシスコは、サント・スピリト教会でミサを捧げられた。

カトリック教会の典礼暦は、4月19日、「神のいつくしみの主日」を祝った。

聖ヨハネ・パウロ二世は、大聖年の2000年、「神のいつくしみの使徒」ファウスティナ・コヴァルスカ修道女(ポーランド1905-1938年)を列聖すると共に、毎年、復活祭の翌週の日曜日(復活節第二主日)を「神のいつくしみの主日」として祝うよう定めた。

「神のいつくしみの主日」制定から20年を迎えたこの日、教皇フランシスコは、バチカンの広場に近いサント・スピリト教会でミサを捧げられた。

サント・スピリト教会(サント・スピリト・イン・サッシア教会)の起源は8世紀にさかのぼり、歴史の変遷を経て、現在はルネッサンスおよびバロックの様式を伝えている。サント・スピリト教会には、1994年より「神のいつくしみの信心」の霊性センターが置かれ、1995年にはヨハネ・パウロ二世が同教会を訪問している。

教皇フランシスコは、同教会でのミサの説教で、次のように話された。

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先週の日曜日にイエスの復活を祝ったわたしたちは、今日は一人の弟子の復活を見守ります。

イエスが弟子たちに現れてから八日後、復活された主を見たにも関わらず、弟子たちはまた家の中にいて、まだ「戸にはみな鍵がかけてあり」(参照:ヨハネ20,26)、怖れのうちに過ごしていました。そして、イエスが来られた時に唯一その場にいなかったトマスに、イエスの復活を信じてもらうこともできずにいました。

イエスは、弟子たちの怖れに満ちたこの不信を前に何をしたでしょうか。イエスは同じ場所に戻り、前と同じように弟子たちの「真ん中に」立ち、「あなたがたに平和があるように」と同じ挨拶を繰り返しました(参照:ヨハネ20,19、20,26)。もう一度最初からやり直されたのです。

トマスの復活は、ここから、この「誠実で忍耐強いいつくしみ」から始まりました。わたしたちが倒れても神は疲れを知らず手を差し伸べてくださる、ということの発見から、彼の復活は始まったのです。

神は、わたしたちに清算を求める主人としてではなく、わたしたちをいつも助け起こしてくれるお父さんとして、見てもらうことを望んでおられます。わたしたちは歩き始めたばかりの子どものように、手探りで人生を前に進みます。子どもは、歩いては、数歩で転び、また転びます。そして、そのたびにお父さんが子どもを立ち上がらせます。わたしたちを再び立ち上がらせるその手こそが、いつくしみなのです。神は、いつくしみなしでは、わたしたちが倒れたままでいること、もう一度歩き出すためには再び立たなければならないことをご存じです。

あなたはこう言うかもしれません。「どうせ、わたしは倒れ続けるだろう」と。主はそれをご存じで、常にあなたを立たせる用意ができています。神は、わたしたちが自分の失敗ばかりを考え続けず、神ご自身を見つめるよう望んでおられます。神は、わたしたちが転ぶ時、そこに助け起こすべき子らを見、わたしたちのみじめさの中に、そこにいつくしみをもって愛すべき子らをご覧になります。

今日、この教会は、ローマにおける「神のいつくしみ」の巡礼地となっています。20年前、聖ヨハネ・パウロ二世は、信頼をもっていつくしみのメッセージを受け入れ、この日曜日を「神のいつくしみ」に捧げました。

イエスは、聖ファウスティナに言われました。「わたしは愛であり、いつくしみそのものである。いかなる悲惨も、わたしのいつくしみに勝ることはない」(『日記』1937.9.14)。また、ある時、ファウスティナは、自分の全人生、自分の持つすべてをあなたに捧げました、と満足をもってイエスに言いました。するとイエスは思いがけない返事をされました。「あなたは、本当にあなたのものである、あるものをわたしに捧げていない」。ファウスティナは、何を出し惜しんだのでしょうか。イエスは悲しんで言われました。「娘よ、あなたのみじめさをわたしに捧げなさい」(1937.10.10)。

わたしたちも主に尋ねてみましょう。「わたしは自分のみじめさをあなたにお捧げしたでしょうか」、「また立ち上がらせていただくために、わたしの過ちをあなたにお見せしたでしょうか」、あるいは「わたしの中にまだ何かが残っているでしょうか」と。一つの罪、後悔、心の傷、誰かに対する恨み、ある人に対する偏見など…。主は、ご自身のいつくしみをわたしたちに見出させるために、わたしたちが主の御もとに自分たちのみじめさを差し出すのを待っておられます。

弟子たちの話に戻りましょう。   弟子たちは、イエスの受難のさなかに主を見捨てたことに、罪を感じていました。しかし、イエスは彼らにお会いになった時、まわりくどい説教はしませんでした。心に傷を負った弟子たちに、ご自分の傷を見せられました。トマスはその傷に触れ、イエスが、ご自身を見捨てた彼のような人間のために、いかに苦しまれたか、その愛を発見しました。トマスはその傷の中に神の優しい寄り添いをじかに感じました。

後から遅れてきたトマスは、神のいつくしみを抱擁した時、他の弟子たちを追い越しました。彼は主の復活だけでなく、神の無限の愛をも信じることができたのです。その思いは最も単純で、最も美しい信仰告白となって彼の口から出ました。「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20,28)。これがこの弟子の復活の時でした。もろく傷ついた人間性がイエスの傷に入った時、彼は復活をとげたのです。そこで、疑いは解け、神は「わたしの神」となり、彼は自分自身を再び受け入れ、自分の人生を愛し始めたのです。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、 わたしたちが経験しているこの試練の中で、わたしたちもまた、トマスのように、怖れや疑念を持ち、自分をもろく感じています。わたしたちには主が必要です。主はわたしたちの中に、わたしたちの弱さにも関わらず、抑えられない美しさを見出されます。主と一緒に、わたしたちは弱さの中に貴重なものを発見します。自分たちに、はかないと同時に尊い、水晶のようなものを見出すのです。もっとも、この世にいながら、わたしたちが水晶のような透明さを持っているとするならば、それは主の御前で、わたしたちの中で輝く主の光、いつくしみの光に照らされているからにほかなりません。それが、「あなたがたは心から喜んでいます。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないとしても」(参照:1ペトロ1,6)と、「ペトロの手紙」に記されるゆえんなのです。

この「神のいつくしみの主日」に、最も素晴らしい知らせが、最も遅れて着いた弟子を通して伝えられました。一人だけそこにいなかったトマス、しかし、主は彼を待っておられました。神のいつくしみは、取り残された人たちを見捨てることはありません。

今、パンデミックからの、ゆっくりとした、容易ではない復興を考える時、まさにこの危険が忍び込もうとしています。それは取り残された人たちを忘れる、という危険です。わたしたちを今後ひどく襲う危険があるのは、無関心な利己主義というウイルスです。自分さえよければ生活は上向く、自分さえうまくいけばすべてそれでよい、という考えが広がることです。こうしたことから始まり、最後には、人を選別し、貧しい人を排除し、発展という名の祭壇の上で取り残された人々を犠牲にするに至ります。

一方で、このパンデミックは、苦しむ人々の間には違いも境界もないことを、わたしたちに思い出させました。わたしたちは皆、弱く、平等で、かけがえのない存在です。今起きていることは、わたしたちの内面を揺さぶります。今こそ、不平等をなくし、全人類の健康を損ねる原因である不正義を正す時です。

「使徒言行録」に記される、初代教会のキリスト教徒たちの姿に学びたいと思います。彼らはいつくしみを受け取り、いつくしみをもって生きました。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」(使徒言行録2,44-45)。これはイデオロギーではありません。キリスト教です。

イエスの復活の後、弟子たちの共同体では、一人だけが取り残され、他の人たちは彼を待っていました。今日、それは逆になったように思われます。人類の一握りの人たちが前に進み、それに対して、大多数の人たちが取り残されています。それぞれがこう言うかもしれません。「これは複雑な問題なのだ。貧しい人々の面倒を見るのはわたしではない。別の人たちが考えるべきだ」と。

聖ファウスティナは、イエスとの出会いの後でこう書いています。「苦しむ魂の中に、わたしたちは十字架につけられたイエスを見るべきであり、じゃま者や重荷を見出すべきではないのだ…(主は)いつくしみの業を通してわたしたちを鍛える機会を与えられ、わたしたちは物事の見方を耐えられるのだ」(『日記』1937.9.6)。

しかし、ファウスティナ自身、いつくしみ深くあることが、人から利用されることになりかねないと、ある日、イエスに対して嘆いています。「主よ、しばしばわたしの寛大さが悪用されています」。そこでイエスは答えます。「気にしてはならない、わたしの娘よ、それにかまうことはない、あなたは常にすべての人にいつくしみ深くあるように」(『日記』1937.12.24)。

「すべての人に」。自分たちの利害、一部の利害だけを考えないようにしましょう。この試練を、すべての人のための未来を用意するための機会ととらえましょう。誰も排除することなく、すべての人のために。共に生きるという視点を持たないならば、未来は誰のためにもありません。

今日、イエスの純粋で心を和らげる愛が、一人の弟子の心を復活させました。わたしたちも、使徒トマスのように、世の救いである、神のいつくしみを受け入れましょう。そして、最も弱い立場の人々にいつくしみをもって接しましょう。そうしてこそ、わたしたちは新しい世界を築くことができるでしょう。

19 4月 2020, 18:30