降誕祭2022:教皇フランシスコによるメッセージと祝福

教皇フランシスコは、ローマと全世界に向けたメッセージと祝福「ウルビ・エト・オルビ」をおくられた。

 12月25日、2022年度の主の降誕の祭日、教皇フランシスコは、ローマと全世界に向けたメッセージと祝福「ウルビ・エト・オルビ」をおくられた。

 降誕祭を迎えたローマは、おだやかな青空に恵まれた。バチカンの聖ペトロ広場には教皇のメッセージに耳を傾け、祝福を受けるため、世界各国からの巡礼者らが集った。

 正午、教皇は、聖ペトロ大聖堂の中央バルコニーに立たれ、クリスマスのメッセージを述べると共に、ローマと全世界に教皇祝福をおくられた。

 教皇フランシスコの2022年度のクリスマス・メッセージは次のとおり。

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  ローマと全世界の親愛なる兄弟姉妹の皆さん、
 主のご降誕おめでとうございます。

 おとめマリアから生まれた主イエスが、信頼と希望の源である神の愛を、そして、それと共に平和の賜物を、すべての皆さんにもたらしますように。その平和を天使たちはベツレヘムの羊飼いたちに告げました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2,14)。

 この祭日、わたしたちの眼差しをベツレヘムに向けたいと思います。主は洞窟の中に、家畜のための飼い葉桶に寝かされ、この世に来られます。なぜならば、マリアの月が満ちていたにも関わらず、イエスの両親は宿屋を見つけることができなかったからです。イエスはわたしたちの間に、沈黙と夜の闇のうちにおいでになりました。それは神のみ言葉が注目を浴びることも、人々の騒ぐ声をも必要としなかったからです。主ご自身が、人生の意味を与え、歩みを照らすみ言葉だからです。「その光は」と福音書は言います、「まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハネ1,9)と。

 イエスはわたしたちの間にお生まれになる、「人と共におられる神」です。イエスはわたしたちの毎日の人生を共にしてくださるために、喜び、悲しみ、希望、不安のすべてをわたしたちと分かち合うためにおいでになります。無垢の幼子としておいでになります。寒さの中に、貧しい人々の一人としてお生まれになります。すべてを必要とし、暖かさと身を寄せる場を求めてわたしたちの心を叩きます。

 ベツレヘムの羊飼いのように、光に包まれるがままに、神がくださったしるしを見に行きましょう。霊的眠気の無気力と、誰を祝っているのかを忘れさせる偽の祝祭のイメージに打ち勝ちましょう。心を麻痺させ、その「出来事」を観想するよりも、飾り付けや贈り物の準備に駆り立てる騒音から抜け出しましょう。その出来事とは、わたしたちのためにお生まれになった神の御子です。

 兄弟姉妹の皆さん、ベツレヘムの方を向きましょう。そこでは平和の君の赤子としての最初の泣き声が聞こえてきます。そうです、イエスご自身が「わたしたちの平和」です。この世が与えることのできない平和、神なる御父がこの世に御子を送ることで人類に賜る平和です。大聖レオ(聖レオ1世教皇教会博士)は、ラテン語の簡略さの中に、この日のメッセージを要約して表現しました。«Natalis Domini, Natalis est pacis»「主の降誕は、平和の降誕である」(『説教』26,5)。

 イエス・キリストは、また「平和の道」でもあります。イエスは、その受肉、受難、死、復活を通し、敵意と戦争の闇に押しつぶされた閉じた世界から、兄弟愛と平和のうちに自由に生きることのできる開かれた世界への道を切り開きました。兄弟姉妹の皆さん、この道を進みましょう。しかし、そのためには、イエスの後ろを歩いていくためには、わたしたちの行く手を妨げ、阻む、重荷を脱ぎ捨てなければなりません。

 これらの重荷とは何でしょうか。この「がらくた」とは何でしょうか。それらは、ヘロデ王とその取り巻きたちに、イエスの降誕を認め、受け入れることを阻んでいたのと同じ負の情熱、すなわち権力と富への執着、傲慢、偽善、いつわりです。これらの重荷はベツレヘムへ向かうのを妨げ、主の降誕の恵みから締め出し、平和の道への入り口を塞いでしまいます。事実、わたしたちに平和の君が与えられる一方で、人類の上を戦争の風が冷たく吹き続けるのを、悲しみをもって認めざるを得ません。

 もし、降誕がイエスと平和の降誕であることを望むのならば、ベツレヘムを眺め、わたしたちのためにお生まれになった幼子の御顔を見つめましょう。そして、その小さく無垢な御顔に、平和を熱望する世界各地の子どもたちの顔を認めましょう。

 わたしたちの目は、ウクライナの兄弟姉妹たちの顔をいっぱいに映し出します。ウクライナの人々は、10ヵ月にわたる戦争による破壊のために、この降誕祭を暗さと寒さの中で、あるいは自分の家から遠く離れた場所で過ごしています。苦しむすべての人々を助けるために、わたしたちがすばやく具体的な行動を取ることができるよう、また武力を鎮める力を持った人の精神を照らし、この言語道断の戦争を直ちに終わらせることができるよう、主が助けて下さいますように。残念ながら、人はこの世の論理が命じる別の理屈に耳を傾けることを好みます。では、幼子イエスの声に誰が耳を傾けるのでしょうか。

 わたしたちの時代は、この第3次世界大戦の他の舞台となっている、別の諸地域においても、深刻な平和の飢餓を体験しています。シリアを思いましょう。そこでは、別の段階に入ったものの、終わることのない紛争にいまだ苦しめられています。聖地を思いましょう。そこでは、ここ数ヶ月暴力と衝突が増え、死者や負傷者を出しています。主の誕生を見たその地において、パレスチナとイスラエルの人々が対話と相互信頼の追求をとり戻すことができるよう主に祈り求めましょう。幼子イエスが中東全域で暮らすキリスト教共同体を支えてくださいますように。これらそれぞれの国で、異なる宗教に属する人々の間において、兄弟的共存の素晴らしさを経験することができますように。特にレバノンをお助けくださいますように。同国が国際共同体の支援と兄弟愛と連帯の力によって、ようやく再び立ち上がることができますように。キリストの光がサヘル地域を照らしてくださいますように。そこでは、衝突と暴力によって人民間の平和的共存と伝統が混乱に陥っています。あらゆる流血の事態が収まるよう、イエメンでの恒久的な和平、ミャンマーとイランにおける和解へと導いてください。アメリカ大陸における政治責任者らとすべての善意の人々に、様々な国で起きている政治・社会的緊張を和らげるための努力を促してください。わたしは特に長い間苦しんでいるハイチの人々を思っています。

 この日々、ごちそうの並ぶ食卓を皆で再び囲むのは好ましいことです。しかし、その間にも、「パンの家」を意味するベツレヘムから視線をそらさないようにしましょう。そして、毎日、大量の食物が無駄にされ、武器のために財源が使われる中、飢えに苦しんでいる人々、特に子どもたちのことを考えましょう。ウクライナにおける戦争は最近その状況をさらに悪化させ、アフガニスタンやアフリカの角(つの)地域の諸国をはじめ、全人類を飢餓の危機にさらしています。すべての戦争が飢えを引き起こし、すでに苦しんでいる人たちへ食料供給を妨げつつ、食料そのものを武器として利用することを、わたしたちは知っています。この期間、特に政治的責任者をはじめとし、平和の君から学び、食料が純粋に平和の道具となるように努力しましょう。わたしたちが親しい人々との再会の喜びを味わっている間、生活の痛手をより多く受けた家族たち、この経済危機の時代、失業のために苦労し、暮らしにもこと欠く人々を思いましょう。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、今日も、あの時のように、真の光であるイエスは、無関心  −それは醜い病です− を病み、イエスを受け入れない(参照 ヨハネ1,11)世界の中にやって来られます。受け入れないどころか、多くの外国人に起きるように、イエスを追い返します。あるいは、わたしたちがあまりにたびたび貧しい人たちにしてしまうように、イエスを無視するのです。今日、慰めと、暖かさ、食べるものを求めてわたしたちの扉を叩く、多くの難民、避難民を忘れないようにしましょう。疎外された人々、孤独な人々、孤児たち、人々の叡智でありながら見捨てられがちな高齢者たち、罪だけを見られ人間として見られることのない受刑者たちを忘れないようにしましょう。

 兄弟姉妹の皆さん、ベツレヘムは神の単純さをわたしたちに示してくれます。神はご自身を知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者に、純粋で開かれた心を持つ者に、お示しになりました(参照 マタイ11,25)。羊飼いたちのように、わたしたちもすぐに出かけ、わたしたちの救いのために人となられた神の、想像を絶する出来事に胸を打たれましょう。すべての善の源である方は自ら貧しくなられ、わたしたちの乏しき人間性を乞われます。神の愛に心動かされ、イエスに従いましょう。イエスはわたしたちをご自身の充満に与らせるために、その栄光を脱ぎ捨てられました。

 すべての皆さまに、主のご降誕のお喜びを申し上げます。

25 12月 2022, 12:49