神に仕える者であることの意味を考える、教皇、南スーダンの教会関係者と

教皇フランシスコは、南スーダンのカトリック教会関係者らとお会いになった。

 南スーダンを訪れた教皇フランシスコは、同国のカトリック教会関係者らとお会いになった。

 2月4日、南スーダン到着翌日、教皇は首都ジュバのカテドラルを訪問された。このカテドラルは、宣教の保護者、幼きイエスの聖テレジアに捧げられている。

 教皇は、カテドラルに集った南スーダンの司教、司祭、助祭、修道者、カテキスタたちに助言と励ましを与えられた。

 南スーダンの人口に対する宗教的構成は、カトリックがおよそ50%を占め、プロテスタント約20%、イスラム教10%、この他伝統宗教などからなる。

 同国におけるカトリック信徒数はおよそ720万人。南スーダンの教会は、7教区と、10人の司教を持つ。

 この席で教皇は、延期を経ながらもようやく実現したこの出会いを神に感謝し、遠方から数日かけて訪れた人々をはじめ、多くの参加者らに温かい挨拶をおくられた。 

 教皇は、前日に同国の各界代表との会見で用いた、白ナイル川が流れる国、南スーダンのイメージを呼び起こしながら、「水」をモチーフにした講話を行われた。

 聖書において、水は創造主なる神の業と結びついている、と教皇は述べ、神の憐れみは荒れ野をさまよう人々の渇きをいやし、そのいつくしみは罪の沼に落ちた人々を清め、洗礼の水は聖霊において人を新たにし、聖なるものとする、と話された。

 その一方で、「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた」と詩編(137,1)にあるように、この国を流れる川にも、暴力に苦しみ、悲嘆に覆われ、祈る民の涙が注がれている、と教皇は指摘。

 事実、この大河の水は、共同体の苦しみのうめきを、絶たれた生命の悲しみの叫びを、逃げる人々、女性たちの嘆き、子どもたちの目に刻まれた恐れを集めている、と語られた。

 しかし、同時に、この大河の水はモーセの物語をも喚起させる、と教皇は話し、モーセが民を率いて紅海を渡った時、その水は解放の道具、ご自分の子らの苦難をご覧になり、その叫びを聞かれる神の救いのしるしとなったことを思い起こされた。

 そして、教皇は、民を連れ荒れ野を行くモーセの物語を見つめることで、戦争と、憎しみ、暴力、貧困の歴史の中で、また多くの無実の人の血が流されたこの川岸で、自分たちに託された人々の顔が涙で刻まれている今この時に、神に仕えるとはどういうことかを自問しなくてはならない、と説いた。

 この問いへの答えを助けるものとして、教皇はモーセの2つの態度、すなわち神への「従順」と、兄弟たちのための神への「取り次ぎ」の態度を模範として示された。

 また、教皇は、神と民との仲介者であるモーセの3つのイメージ、杖を持った姿、腕を広げた姿、手を天に上げる姿に、神に民の願いを取り次ぐ者のあり方を学ぶように助言。

 杖を手にしたモーセの預言者としての言動、民の間で働かれる神の業を示すモーセの広げた腕、民が罪に陥るたびに神との間を取り持つために祈り、天に向けて上げられるモーセの手を注視するよう招かれた。

 教皇は、南スーダンの教会関係者が、祈りと愛だけをまとった寛大な牧者、神の証し人となれるよう祈られた。

04 2月 2023, 13:39