「荒れ野は沈黙の場所、本質に帰る場所」教皇、お告げの祈りで
教皇フランシスコは、12月10日(日)、お告げの祈りを巡礼者と共に唱えられた。
待降節第二主日、教皇は集いの説教で、この日の福音朗読箇所、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れ、悔い改めの洗礼を宣べ伝える場面(マルコ1,1-8)を取り上げられた。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
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この待降節第二主日、福音はイエスの先駆者、洗礼者ヨハネについて語る(マルコ1,1-8)。ここで、ヨハネは「荒れ野で叫ぶ者の声」と呼ばれている。コミュニケーションが絶たれた何もない荒れ野と、そこで話すための声、矛盾したこの二つのイメージを洗礼者ヨハネは結びつける。
「荒れ野」、ヨハネがヨルダン川のほとりで説教をしているその場所は、何世紀も前に彼の民が約束の地に入った地点の近くであった(参照 ヨシュア記3,1-17)。こうすることで、ヨハネは、神に耳を傾けるには、神がご自身の民を40年間にわたり見守り、教えられた場所に立ち返らなければならないと言っているかのようである。
荒れ野は沈黙の場所、本質に帰る場所である。そこでは無用なことのために立ち止まることはできず、生きる上で必要不可欠なことのために集中しなければならない。
これは今日にも意味ある呼びかけである。人生の歩みを続けるためには、あえて何かを脱ぎ捨てる必要がある。よりよく生きるとは、無用なことでそれを満たすことではない。神の御前で本当に大切なものだけを選び取るために、余計な物ごとから解放され、自分を深く掘り下げることである。
沈黙と祈りを通してのみ、わたしたちは御父のみことばであるイエスに耳を傾け、空虚なことばやおしゃべりから自由になることができるだろう。言葉や、物事、メディアや、ソーシャルメディアの使用における沈黙と節制は、単なる信心業でも美徳でもなく、キリスト教生活の本質的要素である。
洗礼者ヨハネのもう一つのイメージ、「声」について考えよう。声は、わたしたちの考えや心の思いを表す道具である。ならば、それが沈黙と大変関連していることがわかるだろう。なぜならば、声は自分の内部で成熟したもの、聖霊の促しに耳を傾けることで得たものを表現するからである。
沈黙できないならば、意味ある言葉を話すのは難しいだろう。それに対し、より注意深く沈黙すればするほど、言葉はより力あるものになる。洗礼者ヨハネにおいて、その声は、自身の経験の正真さと澄んだ心に結びつくものだった。
さあ、自問しよう。自分の一日において、沈黙はどういう位置を占めているだろうか。それは虚しい、あるいは重苦しい沈黙だろうか、それとも傾聴と祈りの空間、心を守る場所だろうか。わたしの生活は節度を保ったものか、それとも無駄な物ごとであふれているのか。
沈黙のおとめ、マリアよ、おいでになるあなたの御子を告げる、信頼しうる声となるために、荒れ野を愛することをお助けください。