四旬節:教皇「イエスのように、わたしたちも荒れ野に入ろう」
教皇フランシスコは、2月18日(日)、バチカンで正午の祈りの集いを持たれた。
復活祭前の準備期間「四旬節」に入って迎えた最初の日曜日、教皇は説教で、同日の福音朗読箇所、マルコ福音書中の、イエスが荒れ野で誘惑を受けたエピソード(マルコ 1,12-15)を取り上げられた。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
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今日、四旬節第一主日、福音は、イエスが四十日間荒れ野にとどまり、サタンから誘惑を受けられたことを伝えている(参照 マルコ 1,12-15)。
この四旬節、わたしたちもまた「荒れ野に入る」ように招かれている。荒れ野に入るとは、沈黙の中に、内的な世界に、心の傾聴に、真理との接触に入ることである。
また、キリストは荒れ野で「野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」と福音書は記している(同1,13)。イエスのそばには野獣と天使たちがいた。しかし、象徴的な意味で、野獣と天使はわたしたちのそばにもいる。わたしたちが内的な荒れ野に入る時、そこで野獣と天使たちと会うことができるだろう。
野獣とは、どういう意味だろうか。霊的生活において、心を分裂させ、征服しようとする、無秩序な情熱のようなものと考えることができる。それは、わたしたちを感化し、魅了するが、油断するとわれわれはそれに八つ裂きにされてしまう。
この魂の「野獣」に名前を与えるならば、たとえば、計算や不満の中に人を閉じ込める富への憧れ、不安や孤独を招く享楽的な虚栄、また、承認されること、主役になることを求め続ける名声欲などを挙げることができるだろう。これらの野獣を手なづける、あるいはこれらと闘う必要がある。さもなければ、この野獣はわたしたちの自由を貪り食うだろう。四旬節は、こうしたものを正すために、内的な荒れ野に入ることを助けてくれる。
一方で、荒れ野には天使たちもいた。神の御使いである天使たちは、わたしたちを助け、わたしたちのためになるように働く。実際、聖書に記されるように、天使たちの特徴は「仕える」ことである(同1,13)。それは、情熱の典型的な性質である「所有」と対照をなすものである。天使の霊は、聖霊が促す善い考えや感情を呼び起こす。
誘惑がわたしたちを引き裂くのに対し、神の善き霊感は、わたしたちを一致、調和させる。心を和らげ、キリストの味わい、「天国の味わい」を与える。これを受け取るには、祈りの沈黙の中に入らねばならない。四旬節はまさにそのための時である。
ここで自問しよう。わたしの心を騒がせる乱れた情熱、「野獣」とは何だろうか。心に話しかける神の声に耳を傾け、それを守るために、「荒れ野」に入る、すなわち祈りに捧げる時間をとる努力をしているだろうか。
御言葉を守り、悪の誘惑に隙を与えなかった聖母マリアよ、わたしたちの四旬節の歩みを助けてください。