イエスの憐みに満ちた眼差しを観想、教皇、日曜正午の集い
教皇フランシスコは、バチカンで7月22日(日)、正午の祈りを信者と共に唱えられた。
集いの説教で教皇は、この日朗読された、マルコ福音書(6,30-34)を観想された。
この箇所には、最初の宣教に派遣された弟子たちが、宣教先から戻り、イエスのところに報告に集まってきたことが記される。
「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」(同6,30)とあるように、弟子たちの初めての宣教体験は熱意に満ちたものだったに違いないと教皇は述べつつ、同時にその体験は何かと困難を伴うものでもあっただろうと想像された。
「さあ、あなたがただけで、人里離れた所へいって、しばらく休むがよい」(同6,31)とイエスが言われたのは、こうした弟子たちの疲労を理解し、思いやられたからであると教皇は指摘された。
しかし、イエスのこの意図は、多くの人々が先回りをして、彼らの行先に向かったために、実現は不可能であった。
わたしたちもまた、自分の計画を実行しようとする時、緊急の用事で、それを断念し、人を助けるために柔軟に対応することが求められることがあると、教皇は語られた。
このような状況の中で、イエスは「舟から上がり、大勢の群集を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(同6,34)。
イエスのこの態度からわたしたちは学ばなければならないと話された教皇は、イエスの群集を見る「眼差し」、冷たく無関心ではなく、常に心の目で見つめる、「憐み」に満ちたその眼差しを観想。
また、イエスの憐みは、単に人々の境遇に対する感情的な反応を超え、神のご自分の民に対する配慮と気遣いを反映するものであったと話された。
イエスがご自分の助けを求める人々にまず示されたのは、奇跡ではなく、いろいろな「教え」であったことに教皇は注目しながら、飢えた、道に迷う人々に、メシアが最初に差し出したパンは、みことばのパンであったと強調。
わたしたちは皆、自分たちの歩みを照らし導く、真理の言葉を必要とし、イエスご自身であるこの真理なしでは、人生の正しい導きは得られない、と説かれた。
イエスとその愛から遠ざかる時、わたしたちは道に迷い、人生は失望と不満に変わってしまうと述べた教皇は、イエスと共に、試練を乗り越え、神と隣人への愛のうちに成長しながら、確かに歩んでいくよう信者らを招かれた。