「イエスに癒され、利己主義から抜け出そう」教皇、日曜の集い
教皇フランシスコは、バチカンで9月9日(日)、正午の祈りを巡礼者と共に唱えられた。
祈りの前に、教皇はこの日の福音朗読箇所、イエスが耳が聞こえず舌の回らない人を癒すエピソード(マルコ7,31-37)をテーマに、説教を行われた。
このエピソードでは、ガリラヤ湖に来られたイエスのもとに、人々が耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った(参照:マルコ7,31)。
教皇は、イエスがこの人だけを群衆の中から連れ出されたことに注目。
イエスがいつも目立たないように行動し、人々を驚かせるのを望まないのは、人気や成功を求めるのではなく、人々の善だけを望んでおられるからであると話された。
教皇は、イエスのこの態度は、良いことは人々の前で見せびらかすのではなく、静かに、沈黙のうちに行うべきであると教えてくれる、と語られた。
イエスはこの人を離れた所に連れ出すと、指をこの人の両耳に差し入れ、唾をつけてその舌に触れられた(参照:同7,33)。
教皇は、イエスのこの行為に、神の御子の受肉の神秘を観想。
神の御子は人となられ、人間の現実の中に入られた。そのために、ある一人の人間の痛ましい状況を理解され、その癒しの行為をもって、すべての人類をも癒される、と説かれた。
同時に、イエスはこの奇跡が、御父とご自身の一致ゆえに可能であることを分からせるため、天を仰いで、深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」、すなわち「開け」と言われた(参照:同7,34)。
すると、その人はただちに癒され、耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった(参照:同7,35)。
彼にとってこの癒しは、他人と世界に対して自分を開くことであったと、教皇は話された。
教皇は福音書のこのエピソードに、「二つの癒し」を指摘。
それは、第一に病気と肉体的苦しみからの癒しであり、もう一つは「怖れ」からの癒しであると語られた。
「怖れ」は、わたしたちに病者や、苦しむ人、障害のある人を疎外させ、病気や苦しみ、困難に置かれた人々に対して、わたしたちの耳と口を閉ざしてしまう、と教皇は述べ、病者や苦しむ人を問題として捉えるのではなく、弱い立場の人々に連帯を示す機会と捉えるべきと説かれた。
教皇は、わたしたちも、耳を開き、言葉を取り戻すイエスの「エッファタ」に癒され、利己主義から抜け出し、苦しむ人や助けを求める人たちに心を開いていくよう呼びかけられた。