「御言葉を信じ、主との出会いに備えて生きる」教皇、日曜の集い
教皇フランシスコは、11月18日、「貧しい人のための世界祈願日」のミサを捧げられた後、正午に巡礼者らと共に「お告げの祈り」を唱えられた。
祈りの前の説教で、教皇はこの日の福音朗読箇所、世の苦難の後、力と栄光を帯びてやって来る人の子について語る場面「 (マルコ13,24-32)を観想された。
弟子たちに終末の徴(しるし)を教え、大きな苦難を予告したイエスは、この箇所で、苦難の後に訪れる人の子について話されている。
教皇は、イエスがこの教えで主眼としていることは、世の終わりについての語りよりも、現在をより良く生き、わたしたちの人生の決算をする時に備えて目覚めているようにとの招きである、と話された。
イエスはここで、民や個人の歴史には終わりと到達すべき目的地、すなわち主との最終的な出会いがある、ということを教えている、と教皇は説明。
ただ、「その日、その時は誰も知らない。天使たちも子も知らない」(マルコ13,32)とイエスが言われるように、すべては御父の神秘の中に守られている、と述べられた。
しかし、教皇は、わたしたちが向き合うべき本質は、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(マルコ13,31)というイエスの言葉にあると強調。
「その時、わたしたち一人ひとりが、自分の人生は神の御言葉に照らされたものであったか、あるいは自分の言葉だけを信じ、御言葉に背を向けたものであったかを、知ることになるだろう」
「その時こそ、御父の愛といつくしみに最終的に自分を委ねる時である」
「誰もがその時を逃れることはできない。その時には、自分をよく見せようとする狡猾さも、お金の力ですべては買えるという思い上がりも通用しない。ただ、御言葉を信じながら、どれだけのことを人生で行えたかが問われる」
教皇はこのように話された。
この世における命のと限界への自覚が、わたしたちを苦悩に陥れることなく、むしろ自分と隣人、そして全世界に対する責任を促すようにと、教皇は聖母の取り次ぎを祈られた。