「神はご自分を父と呼ぶように招く方」教皇一般謁見
教皇フランシスコは、1月2日、水曜恒例の一般謁見を行われた。
2019年最初の一般謁見は、バチカンのパウロ6世ホールを会場に開催された。
教皇は世界各国の巡礼者らに新年の挨拶をおくりながら、昨年末から始まった「主の祈り」をめぐるカテケーシスを続けられた。
教皇は、マタイ福音書の中で、「主の祈り」(同6,9-13)が、「山上の説教」(同5,1-7,27)の中心部という、重要な場所に置かれていることに注目。
イエスがご自身の基本的なメッセージを伝えた「山上の説教」において、「主の祈り」を教えられたことに大きな意味を見出された。
イエスは、山上で説いた「真福八端」の中で、心の貧しい人、柔和な人、憐み深い人、心の清い人たちを、「幸いである」と呼んでいる。
愛し、平和を作り出すことができる人々、しかし歴史の片隅に置かれたこれらの人々こそが、実は神の御国の構築者であるということは、福音の革命である、と教皇は話された。
教皇は、イエスの「山上の説教」全体の基礎をなす偉大な神秘は、「あなたがたは、天におられるあなたがたの父の子たちである」ということと述べられた。
キリスト者とは、他の人よりもより善い人間であろうと努力する人ではなく、自分が皆と同様に罪びとであると知る人であると教皇は説かれた。
キリスト者とは、新たな燃える柴の前で、神の啓示を受ける人であり、その神とは謎をもたらす方ではなく、ご自分を「父」と呼ぶようにと子らに招く方であると話された。
教皇は、イエスが「主の祈り」を教える前に、祈る時には、人に見てもらうことを意識する「偽善者」のようでも、言葉数さえ多ければ聞き入れられると思い込む「異邦人」のようであってもならない、と注意していることを指摘。
これに対して、キリスト者の祈りは、「あなたが祈る時は、奥まった自分の部屋に入って、戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい」(マタイ6,6)とイエスが言うように、自分の良心以外に証人を持たず、御父との対話に集中するものであるべき、と語られた。
また、「あなたがたの父は、願う前からあなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイ6,8)とイエスが言われることからも、祈る時は、子が父に話しかけるように祈るべきと述べられた。
教皇は、「主の祈り」は、沈黙のうちに祈ってもよく、神に祈りを聞き入れていただくには、神の眼差しのもとに自らを置き、御父の愛を思い起こすだけで十分であると話された。
わたしたちの神が、何かをしてくださるために、生贄を要求なさらない、と考えるのは素晴らしいこと、と述べた教皇は、神がわたしたちの祈りに求めておられることは、自分たちが神に深く愛された子であると知るために自らを開いていることだけである、と強調された。