「わたしたちは、ゆるしを毎日必要とする」教皇一般謁見
教皇フランシスコは、バチカンで4月10日、水曜恒例の一般謁見を行われた。
この日は、ときおり雨の降る空模様となったが、一般謁見は多数の巡礼者と共に、予定通り聖ペトロ広場で開催された。
教皇は謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、「主の祈り」をテーマに、「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」という部分を考察された。
「主の祈り」は、「わたしたちの日ごとの糧を今日も お与えください」と願った後、自分たちと他者との関係に入る。
「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」という祈りは、わたしたちが日ごとのパンを必要とするように、ゆるしをも毎日必要としていることを表している、と教皇は話された。
「何よりも神に自分の罪をゆるしてもらうことを願う、これがキリスト者の祈りの一番の真理である」と説く教皇は、たとえ完璧な人や、決して道を踏み外さない聖人であっても、常に御父の子としてすべてを神に負っている、キリスト者の一番危険な態度は驕りであると語られた。
罪には、明らかに目に見える罪もあれば、自分では気づかないような偽善的な罪もある。驕った心は、宗教的生活をおくる人をも蝕み、この罪は、兄弟愛を分裂させ、自分を他人より優れた、神に近い者と思わせてしまう、と教皇は話された。
これに対して、わたしたちは神の御前で皆罪びとであると教皇は強調。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません」という「ヨハネの手紙1」(1,8)の言葉を示された。
教皇は、わたしたちは、いのちや、父と母、友情、自然など、人生に多くを与えられた、神に負う存在であり、人生とは一つの恵み、神が何もないところから引き出された奇跡であることを思い出さなくてはならない、と説かれた。
「わたしたちが神に負う者であるのは、自分の力だけでは、愛することもできないからです。人は自分の光だけで輝くことができず、神の光、恵みを受けて輝きます。あなたが愛することができるのは、あなたのそばにいる誰かが、あなたを愛に目覚めさせたからです。」
「わたしたちは愛されたから、愛し、ゆるされたから、ゆるすのです。太陽の光に照らされたことのない人がいるならば、その人は冬の地面のように凍ってしまうでしょう」
と、このように教皇は説明された。
「神がわたしたちを愛されたようには、誰も神を愛することはできません」と述べた教皇は、イエスの十字架を前に、わたしたちを最初に愛され、常に愛される神の神秘を観想するように招かれた。