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教皇フランシスコ、一般謁見 教皇フランシスコ、一般謁見 

教皇:「 試練の時に神への信頼をイエスから学ぼう」一般謁見

教皇フランシスコは、一般謁見で、イエスの御父への全幅の信頼について話された。

教皇フランシスコは、バチカンで4月17日、水曜恒例の一般謁見を行われた。

この謁見で、教皇は、ご受難に入る前のイエスが、最大の試練の中にあって、どれ深く御父なる神に信頼していたかを語り、苦しみの中にあってこそ、神への全幅の信頼の必要なことを強調し、次のように話された。

「親愛なる兄弟姉妹の皆さん明日の聖木曜日からわたしたちは主のご復活、過越を準備する聖なる三日間に入ります。福音史家たちはこの聖主のご受難を、イエスの「栄光の時」として記しています。この間にイエスが御父から受けられる栄光は、この世の栄光とは全く異なります。正反対と言っていいでしょう。

ご受難に入られる直前、イエスはゲツセマニの園で、血の汗を流すほどの極度の苦しみ恐怖を体験します。まじかに控えた、親しい者たちからの裏切り、軽蔑、侮辱、苦しみ、挫折の前で恐れ、そして、苦悩し始めます。

この苦悩の淵にあって、イエスは父なる神にこの上なく甘美な呼びかけ「アッバ」お父さんという言葉で祈ります。「アッバ」という言葉は普段子供たちが自分の父親を親しさを籠めて呼ぶときの言葉です。イエスはこうして子供が困難に会う時、だれよりもまず自分の父親にしがみつくように、わたしたちも試練に出会う時、何よりもまず神なる御父に助けを求め信頼するよう教えてくれます。

なぜなら神に対する祈りの中にこそ、苦しみの中でも前進できる力があるからです。

イエスは皆から見放された時でも、決して一人ぼっちではありませんでした。いかなるときにも、常に御父と一緒でした。

 

わたしたちは、かえって自分のゲッサマニ、すなわち試練の時にあって、しばしばイエスとは異なり、イエスのように、わたしたちの本当の唯一の善である御父のみ旨に信頼し委託するよりも、孤独の中に自分一人になることを選んでしまいがちです。

 

苦しみの時、試練の時に自分自身の中に閉じこもることは、出口のないトンネルの中に自分自身を閉じ込めるようなものです。,自分自身にしか向かわないこの方向性には何の救いの可能性もありません。

 

最大の問題は、苦しみそのものではなく、その苦しみにどのように対処するかが問題なのです。

 

自分の中に閉じこもる孤独は、何の出口も開いてはくれません。しかし、他者とのかかわりであり、信頼、委託である祈りはそうではありません。自分自身の中に閉じこもるのではなく、祈ること、すなわち、外に向かい、自分自身を開いていくことによって解決の道も開かれるのです」。

17 4月 2019, 18:04