教皇「主がご覧になるのは、肩書きではなく、謙遜で善良な人生」
教皇フランシスコは、バチカンで8月25日、日曜正午の祈りを巡礼者と共に唱えられた。
この集いで教皇は、イエスの「狭い戸口から入るように努めなさい」(ルカ13,24)という教えをテーマに説教された。
同日の福音朗読箇所(ルカ13,22-30)では、イエスが町や村を巡り教えながら、エルサレムへと向かっていると、ある人から「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(同13,23)と尋ねられる場面が描かれる。
この問いに対してイエスは、「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」(同13,24)と答えられた。
教皇は、ここでイエスは、「救われる者は少ないのか」という数の問題を、どう生きるべきか、という責任の問題のレベルに置き替え、今をよりよく生きるようにわたしたちを招いている、と指摘。
イエスはこの言葉を通し、救われるのは数の問題ではない、すなわち、天国には定員はないが、正しい戸口から入ることが大切であり、それは皆に開かれているが、狭い戸口であると教えている、と説明された。
では、「狭い戸口」とはどういう意味か。それは、救われるためには、神と隣人を愛し、福音に従って生きる覚悟、努力を必要とする、という意味である、と教皇は述べた。
教皇は、イエスがこの後、よりよい理解のために、「戸口」をイメージしたたとえを次のように語っていることに注目。
「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者かしらない』という答えが返ってくるだけである」(同13,25)
教皇は、このたとえの中で、「家の主人」は主を、その「家」とは永遠の命、救いを表している、と述べられた。
たとえでは、主人から閉めだされた人々が、一緒に食べたこと、広場で教えを受けたことを思い出させようとしても、主人は『不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』(同13,27)と厳しい言葉をかける。
これについて教皇は、主がご覧になるのは、わたしたちの肩書きではなく、謙遜で善良な人生、信仰を行いで表した生き方である、と話された。
そして、教皇は、「天国の門」と呼ばれる聖母マリアを観想。マリアが「天国の門」と言われるのは、イエスを心から迎え入れ、理解できない時も、魂を剣で貫かれるような時も、毎日の人生をイエスに従い、イエスという「狭い戸口」を通ったからである、と説かれた。