喜びの日曜日:教皇、幼きイエス像を祝別
教皇フランシスコは、バチカンで12月15日、日曜正午の祈りを巡礼者と共に唱えられた。
カトリック教会の典礼暦は、現在、クリスマスを準備する期間、待降節にある。
待降節に入り3回目の日曜日(待降節第三主日)は、「喜びの日曜日」と呼ばれる。
この日、教皇は、ローマ教区の子どもたちをはじめ、巡礼者らが手にする、プレゼピオ(イエスの降誕を再現した馬小屋の模型)用の幼きイエス像を祝別するのが伝統となっている。
教皇は、集いの終わりに、幼きイエス像を高く掲げるように広場の子どもたちに呼びかけ、心を込めてこれらの像を祝別された。
「喜びの日曜日」の説教で、教皇は、この日の朗読箇所から、イザヤ書の一節「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ、砂漠よ、喜び、花を咲かせよ」(35,1)に見られる「喜び」、また、マタイ福音書に記される「来るべき方は、あなたでしょうか。それともほかの方を待たねばなりませんか」(11,3)という、洗礼者ヨハネの「疑問」を対比され、「喜び」と「疑問」、このどちらも、わたしたちの生活を形作っているもの、と述べられた。
聖霊に促され、現実の彼方を見つめる預言者イザヤは、手が弱り、膝をよろめかせる人々を前に「雄々しくあれ、恐れるな、見よ、あなたたちの神を。神は来て、あなたたちを救われる」(参照:35,3-4)と、救いの希望を告げ、その時、荒れ地は花開き、おののく心も、見えない人、口の聞こえない人も癒され、すべてが変容する(参照:35, 5-6)、と預言していることを教皇は示された。
そして、教皇はイザヤの預言を「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(マタイ11,5)という、イエスが実現された業と重ねられた。
待降節は恵みの時、と述べた教皇は、神を信じるだけでは十分でなく、毎日自分たちの信仰を清めることが大切と話された。
また、待降節とは、おとぎ話の人物ではなく、わたしたちに問いかけ、わたしたちを関わらせ、一つの選択をせまる神を受け入れる準備である、とも語られた。
教皇は、プレゼピオに寝かされた幼子イエスは、最も貧しく助けを必要とするわたしたち兄弟姉妹たちの顔を映し出している、と説かれた。
クリスマスが近づく中、表面的なことに気を取られることなく、わたしたちを癒し、わたしたちに喜びを与えるお方のために心を広げることができるようにと、教皇はおとめマリアの助けを祈られた。