教皇「貧しさは、真の自由に奉仕するもの」一般謁見
教皇フランシスコは、2月5日、バチカンのパウロ6世ホールで水曜恒例の一般謁見を行われた。
謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)では、教皇は先週から、マタイ福音書中の「真福八端」(5,1-11)をテーマに、新しい一連の考察を開始されている。
この日は、「真福八端」における最初の教え、「心の貧しい人は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイ5,3)という言葉を取り上げられた。
教皇は、イエスが幸福への道を告げるにあたり、「心の貧しい人は、幸い」という、一見矛盾に満ちた道を最初に説いているのは、驚くべきこと、と話された。
この教えの説く「貧しさ」とは何なのか。もし、福音記者マタイがただ「貧しい人」という言葉を使っていたならば、それは経済的な意味に過ぎないかもしれないが、ここでは「心の貧しい人」と記されていることを教皇は指摘された。
ならば、「心=スピリット」とは何であろうか。教皇は、聖書によれば、スピリットとは神がアダムに吹き込んだ命の息吹、わたしたちを人間たらしめる、存在の深い核心となるもの、と述べた。
「心の貧しい人」を「幸い」と宣言するイエスは、その理由を「天の国はその人たちのものである」からだという。
これに対し、この世で人は常に何者かにならなければいけない、名をはせなければならないといわれ続け、それによる極度の競争や不安から、孤独感や満たされない気持ちを抱くことになる、と教皇は語った。
また、教皇は、「もし、自分の貧しさを受け入れることができないならば、自身の弱さや欠点を思い出させるすべてのものを憎むことになる」と述べた。
さらに、「誰もが自分を見つめる時、足りなさや弱さを自覚するものであるが、自己の限界を認めない人はより良く生きることができない。プライドの高い人は助けを求めることも、自分の過ちを認め、赦しを乞うこともできない」と述べられた。
教皇は、イエス・キリストは「貧しいことは恵みの機会である」とわたしたちに告げ、自分の偽善や欠陥を隠そうとする苦労からの解放の道を示している、と話された。
「貧しさは天国への道であると、イエスはわたしたちに貧しくあることの権利を与えてくれた」と教皇は述べる一方、注意すべきこととして、「わたしたちは心を貧しくするためにわざわざ自分を変える必要はない。なぜならば、わたしたちは本来貧しいからである。わたしたちは皆、心の貧しい者、神の救いを必要とする者だからである」と語られた。
神の御国は心の貧しい人たちのものであるが、この世において王国を築く人たちもいる。しかし、その王国はいつかは終わり、人の権力も過ぎ去る、と教皇は話した。
これに対し、「真に統治する者は、本当の善を自分自身よりも愛する」と述べた教皇は、「キリストは、地上の王たちがしないこと、すなわち自分のいのちを人々のために与えることができた。これこそ、真の権力である」と説き、ここに真の自由を見つめられた。
教皇は、「真福八端」が称える貧しさは、この真の自由に奉仕するものである、と強調。
なぜなら、貧しさには、受け入れるべき自分自身の本来の貧しさと、自由でいること、愛することができるために必要な、もう一つの追求すべき貧しさがあるからである、と話された。