「柔和な人々は、幸いである」をテーマに、教皇一般謁見
教皇フランシスコは、バチカンで2月19日、水曜恒例の一般謁見を行われた。
教皇によるカテケーシス(教会の教えの解説)では、イエスの「真福八端」(マタイ福音書5,1-11)の3番目の教え、「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」が考察された。
この教えで使われる「柔和」という言葉は、文字通り、「優しい、穏やか、思いやりのある、暴力的でない」などの意味を持つ、と教皇は説明。
「柔和さ」は、争いなど、敵意ある状況の中でこそ表されるものであり、誰もが平穏な時は柔和でいられても、攻撃されたり、プレッシャー下に置かれた時に、いかなる反応をするかが試されている、と述べられた。
「キリストの優しさと心の広さ」(2コリント10,1)を指摘する聖パウロや、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」(1ペトロ2,23)という聖ペトロの言葉に、教皇は受難の中で特に際立つイエスの柔和さを観想された。
また、教皇は、聖書の中でこの「柔和な」という言葉は、土地を持たない者をも指している、と解説。「真福八端」の中で、この「柔和な人々」が「地を受け継ぐ」と言われていることに深い意味を見出された。
教皇は、詩編でも、憤らないことと、地を継ぐことの関係が示されている(詩編37, 3.8-11)ことに注目。
柔和な人たちは土地を争いで「獲得」するのではなく、神から賜物として「受け継ぐ」のであり、その土地とは単なる地上の所有地ではなく、「新たな地」、わたしたちが向かっている「天の国」のことである、と話された。
キリストの弟子は、神から受け継ぐこの「地」を、いつくしみや兄弟愛、信頼や希望と共に守らなければならないが、わたしたちは「憤りの罪」によって、これらを台無しにしたり、失わないようにしなくてはならない、とも語られた。
柔和さは心に打ち勝ち、友情や多くのものを守る、と述べた教皇は、憤っても、心を落ち着け、熟考し、再び歩み始めることで、わたしたちは柔和さと共にまた築いていくことができるだろう、と話された。