灰の水曜日:「イエスと共に荒れ野に入ろう」教皇一般謁見
教皇フランシスコは、バチカンで2月26日、水曜恒例の一般謁見を行われた。
同日、カトリック教会の典礼暦は「灰の水曜日」を迎え、これと共に復活祭前の準備期間、「四旬節」に入った。
教皇は謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、「四旬節」の意味について講話を行われた。
「四旬節」は、「灰の水曜日」から「聖土曜日」(復活祭の前日の土曜日)までの、主日(日曜日)を除いた40日間をいう。
教皇は、キリスト教信仰と一年の典礼の中心である復活祭へと向かう、この「四旬節」の歩みは、公生活前に荒れ野で40日間の祈りと断食の日々を過ごしたイエスに従うもの、と話し、キリスト者にとって「荒れ野」が示す精神的意味を説明された。
自分が荒れ野にいると想像するよう招かれた教皇は、そこで最初に感じるのは大いなる沈黙ではないだろうかと述べられた。
荒れ野は、わたしたちを取り囲む騒音から離れ、その沈黙の中で、風のように吹き、心に触れる神の御言葉を聴く、まさに「御言葉の場所」である、と教皇は語られた。
実際、聖書では、主は荒れ野でご自身の民に話しかけることを好まれる、と教皇は述べ、神がモーセに十戒を託されたのは、荒れ野においてであった、と振り返った。
荒れ野で人は神に近づき、神の愛を再び見出す。毎日、人里離れた所に退き祈っておられたイエスは(参照:5,16)、沈黙のうちにわたしたちに語りかける御父を、どのように探し求めたらよいかを教えている、と教皇は述べた。
こうしたことから、四旬節はテレビや携帯電話を消して、聖書を開き、福音に親しむようにと勧められた。
神と対話するためには祈りが不可欠であり、主との沈黙の対話はわたしたちに再び命を与えるものである、と、教皇は祈りの重要性を示された。
教皇はまた、荒れ野は多くの無用な物事から解放され、本当に大切なものに立ち返る、「本質の場所」と強調。
イエスはわたしたちに断食の模範を示されたが、断食は無駄や贅沢を捨て、本質的で簡素な生活の美しさを求めさせるもの、と説かれた。
さらに、教皇は、荒れ野は「孤独の場所」である、と語った。
今日もわたしたちのまわりには多くの荒れ野がある、と話す教皇は、貧しい人やお年寄りなど、疎外され見捨てられた多くの人々の存在を指摘。
荒れ野は無言のうちに助けを求めるこれらの人々へとわたしたちを導き、四旬節の歩みは最も弱い立場の人々に向かう愛の歩みとなる、と話された。
こうして、教皇は、祈り・断食・いつくしみの業を、四旬節の荒れ野の道として示された。
「『見よ、新しいことをわたしは行う…わたしは荒れ野に道を敷く』(参照:イザヤ43,19)と神は約束されたとおり、荒れ野にはわたしたちを死からいのちへと導く道が開かれる。」
「イエスと共に荒れ野に入り、いのちを新たにする神の愛の力、過ぎ越しを体験しながら、そこから出よう。荒れ野のイエスに従おう。イエスによってわたしたちの荒れ野は花開くだろう。」
教皇は、四旬節の初日、「灰の水曜日」の一般謁見で、このように呼びかけられた。