「義に飢え渇く人々は、幸い」教皇、ビデオによる一般謁見
教皇フランシスコは、3月11日(水)、バチカン宮殿からビデオ中継をとおし、一般謁見を行われた。
水曜日の恒例である教皇一般謁見は、バチカンの聖ペトロ広場、またはパウロ6世謁見ホールを会場に、ほぼ毎週行われている。
この日の一般謁見は、3月8日(日)の「お告げの祈り」と同様、新型コロナウイルス感染拡大防止を目的に、教皇が公務で使われるバチカン宮殿の図書室から、バチカン・ニュースのインターネット・サイトでの中継を介して行われた。
一方、前日3月10日より、バチカンの聖ペトロ広場は一般の訪問者には閉鎖されていることから、広場での大型スクリーンをとおした中継は行われなかった。
教皇はこの日のカテケーシス(教会の教えの解説)で、マタイ福音書から、イエスの「真福八端」の4番目の教え、「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる」(同5,6)を取り上げ、講話を行われた。
教皇フランシスコの講話は次のとおり。
**********
親愛なる兄弟姉妹の皆さん。
今日の謁見のカテケーシスでも、主が「真福八端」をとおし、わたしたちに与えてくださった、真の幸福に至るための輝かしい道について考察を続けましょう。
主は、「真福八端」の4番目の教えで、このように言われます。「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる」(マタイ 5,6)。
わたしたちは、すでに「心の貧しい人々」についての考察をしてきました。今回は、一歩進んで、飢えと渇きをめぐる、人間の弱さにさらに思いをはせましょう。
飢えも渇きも、人間にとって、生き抜くための最も根本的な必要に関わってくるものです。ここで強調されているのは、普通の欲求ではなく、毎日の食物のような、日々の生活における本質的な必要性です。
義に対する飢えや渇きとは、いったい何を意味しているのでしょうか。もちろん、不正に対する復讐などを意味するわけではありません。前回のカテケーシスで、わたしたちは「柔和」について考えたばかりです。もっとも、不正は人類を大いに傷つけます。社会は、公正と、真理、社会正義を必要としているのです。
人々がこの世で受けた悪は、天の御父の御心にまで届くということを、覚えておきましょう。いったい、いかなる父親が、子どもたちの苦しみや痛みを感じないことがありましょうか。聖書は、貧しい人々や圧迫される人々が耐え忍ぶ痛みを、神はよくご存じで、それを共にしておられると語っています。
「出エジプト記」が語るように、イスラエルの子らの叫びを聞き、神自ら、彼らを救い出すために天から降られました(参照:3,7-10)。しかし、主がここで語っている義に対する飢えと渇きは、各人がその心に携える正当な人間的正義よりも、もっと奥深い義のことです。
山上の垂訓で、イエスは人間的権利や完徳よりも、もっと大きな義について語っています。「あなたたちの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」 (マタイ 5,20)。これは人間的な義ではなく、神に由来する義のことです(参照:1 コリント 1,30)。
聖書には、わたしたちの存在そのものに根差した欲求、物理的な渇きより、より深い渇きの表現を見出すことができます。 詩編は言っています。「神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め、わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは、乾ききった大地のように衰え、水のない地のように渇き果てています」(詩編63,2)。
いにしえの教父たちは、人の心の奥底に息づく、やむにやまれぬあこがれについて語っています。聖アウグスティヌスは言います。「主よ、あなたはわたしたちをあなたのためにおつくりになりました。ですから、わたしの心はあなた自身の中に憩うまで安らぐことはありません」。内的な渇き、内的な飢え、内的な物足りなさというものがあるのです。
いかなる人の心にも、それがどんなに極悪で善からほど遠いと思われる人の心にも、光に対するあこがれが隠されています。たとえ、それが誤謬や欺瞞の中に埋もれきっていても、それは常に真理と善に対する飢えであり、神への渇きなのです。神なる聖霊こそが、この渇きをひき起こすのです。生ける水そのものであるこの神が、わたしたちを塵から創造し、創造主としての息をかけ、人間すべてを生かしているからです。
このために、教会は聖霊に満たされ、すべての人々に神のみ言葉を伝えるよう遣わされたのです。なぜなら、イエス・キリストの福音は、たとえ多くの人は気づかなくても、人類の心におくられる最高の義だからです。福音は、人の心にとって、生命にかかわる必要性なのです。
例えば、一組の男女が結婚し、何か偉大で素晴しいことをしようと思う時、この渇きを生き生きと保ち続ける限り、多くの問題があったとしても、神の恵みの助けをもって、必ずや前進する道を見出すことでしょう。
若者たちも、この飢えを持っています。それを決して失ってはなりません。この愛と優しさと、友情の感情や望みを、子どもたちの心に守りはぐくんでいかなければなりません。
各自は、何が本当に大切で、何が本当に必要なのか、よく生きるために何をすべきか、同時に、何が二義的で、重要でないことなのかを、しっかり把握しなければなりません。
イエスはこの幸福論の中で、飢えと渇きについて語ります。それは、決して欺かれることのない飢え渇きです。最後には必ず満たされる飢え渇きです。 なぜなら、この飢え渇きは神ご自身、愛そのものである聖霊に由来するものであり、また、聖霊ご自身がわたしたちの心に蒔かれた種子に由来するものだからです。
神ご自身を求め、神を見、そして人々に善を施すことである、この義に対する渇きを、主がわたしたちにもお与えくださいますように。