「憐れみ深い人々は、幸い」教皇、ビデオでカテケーシス
教皇フランシスコは、3月18日、水曜日の一般謁見をビデオを通して行われた。
この一般謁見は、先週と同様、新型コロナウイルス感染拡大防止を念頭に、バチカン宮殿の図書室から、バチカン・ニュースのサイト上での中継をもって行われた。
教皇はこの日のカテケーシス(教会の教えの解説)で、マタイ福音書に記される、「真福八端」の5番目の教え、「憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐みを受ける」(同5,7)を取り上げられた。
教皇フランシスコの講話の要約は次のとおり。
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親愛なる兄弟姉妹の皆さん
今日は「真福八端」の5番目の教え、「憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐みを受ける」(同5,7)を考察したいと思います。
この5番目の教えにおいて特徴的なことは、「憐み」という言葉が、幸いの「原因」である前半部と、その「実り」を表す後半部の両方に使われ、互いに呼応していることです。
この赦しの相互性は、「真福八端」においてだけでなく、福音全体に頻繁に見いだされるものです。そうでなくて、何でありましょう。憐みとは神の御心そのものです。
その相互性は、特にわたしたちが祈る「主の祈り」に表れています。それは、「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」とあるとおりです。
そして、この嘆願に対し、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」(マタイ6,14-15)という唯一の答えが与えられるのです。
与えた赦しと、受けた赦し、この二つは切り離すことができないものです。しかし、多くの人にとって、赦すことは難しいことです。自分が受けたひどい仕打ちを赦すことは、高い山に登るように、多大な努力を必要とします。
この憐みの相互性は、わたしたちの考え方を覆すよう促します。わたしたちの力では不可能であるがゆえに、神の恵みが必要です。
「真福八端」の5番目の教えが憐みを約束し、「主の祈り」が罪の赦しを願っているように、わたしたちは本来負い目のある者であり、憐みを必要とする者です。
わたしたち皆が負い目を持っています。寛大な神に対してはもとより、兄弟たちに対してもそれを持っています。
すべての人が、自分が父として、母として、また夫、妻、兄弟姉妹として、あるべき理想の姿ではないことを知っています。
わたしたちは人生において「負債」があり、そこに憐みを必要としているのです。わたしたちが過ちを犯したとしたら、そこには行うべき善が何か足りなかったということです。
しかし、このわたしたちの貧しさこそが、赦しのための力となるのです。わたしたちは負い目のある者ですが、わたしたちは「自分の量る秤で量り返される」存在です(参照:ルカ6,38)。ならば、秤をいっぱいに広げて、人を赦すことです。
赦しと忍耐、これが憐みの秘訣であることを忘れてはなりません。赦すことで、赦されます。神はわたしたちに先立って、最初に赦しを与えてくださいます。神の赦しを受けながら、わたしたちも人を赦す力を得るのです。
こうして、自分の惨めさと過ちは、天の御国に向かって自分を開く機会となります。神は憐みであり、その秤は大きいものです。
わたしたちの憐みはどこから来るのでしょうか。イエスは言います。「あなたがたの父が憐み深いように、あなたがたも憐み深い者となりなさい」(ルカ6,36)御父の愛を受け入れれば受け入れるほど、より多く愛することができるのです。
憐みは、キリスト教生活の中心です。憐みは、あらゆる霊的歩みの唯一の真の到達点です。それは、愛(カリタス)の最も美しい実りの一つです。
わたしは教皇に登位して最初に、憐みというこのテーマを伝えたいと思いました。登位後初めてのお告げの祈りで、教皇としてこのメッセージを与える必要を強く感じたのです。
神の憐みは、わたしたちの自由であり幸いです。わたしたちは憐みを生き、空気のように、それ無しではいられません。わたしたちは条件を提示するには貧しすぎる立場です。わたしたちは赦す必要があります。それは赦される必要があるからです。