聖金曜日:「人間の苦しみの意味を変容する、キリストの十字架」
「聖金曜日」4月10日、バチカンで、教皇フランシスコによる「主の受難の儀式」がとり行われた。
「聖金曜日」は、復活祭直前の金曜日を指し、イエス・キリストの受難と十字架上の死を記念する日である。
聖ペトロ大聖堂の「司教座の祭壇」で行われた「主の受難の儀式」は、他の聖週間中の儀式と同様に、新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から、教皇とわずかな関係者のみで行われた。
この儀式では、教皇の床に伏しての祈り、「ヨハネ福音書」のイエスの受難と死の場面の朗読、十字架の崇敬などを通して、十字架につけられ掲げられた神の御子の受難と死の神秘、その贖いの業を観想した。
説教は、教皇付説教師ラニエーレ・カンタラメッサ神父によって行われた。
カンタラメッサ師は、「キリストの十字架は人間の苦しみの意味を変容した」と述べ、苦しみはもはや一つの「罰」ではなく、神の御子がそれをご自身に引き受けられた時から、それは根本において贖われた、と話した。
新型コロナウイルスの感染拡大は、自分たちは全能であるという幻想から突然わたしたちの目を覚まさせ、これほど小さいウイルスが、人間は不死身でなく、軍事力も、テクノロジーも、わたしたちを救うには十分でないことを教えている、と語った。
このパンデミックを神の懲罰のように見る声に対し、カンタラメッサ師は、神はわたしたちの味方であり、神のご計画は「平和の計画であって、災いの計画ではない」(エレミヤ29,11)と強調。
主はラザロの死に涙を流されたように、今日も、人類を苦しめるこの災害のために涙を流し、すべての父や母のように、苦しんでおられる、と話した。
そして、神はわたしたちが苦しみを乗り越えることができるよう寄り添い、ご自身のご計画にいかなる悪も許されず、むしろ悪から善を引き出す方であると述べた。
イエスが「自分は三日後に復活する」(参照:マタイ27,63)と告げたように、わたしたちもこの時を乗り越えて、復活し、家から出る日が来るだろう、と述べたカンタラメッサ師は、それは、ラザロのように元の生活に戻るためではなく、イエスのように、兄弟愛に満ち、より人間的で、キリスト教的な、新しい生き方を得るためである、と説いた。
聖金曜日には、盛式共同祈願と呼ばれる、荘厳な祈りが捧げられる。この儀式では、普遍的な様々な意向と共に、今日のパンデミックの影響に苦しむすべての人々のため、「神が、患者に回復を、医療関係者に力を、家族に慰めを、亡くなった方に救いをもたらしてくださるように」との祈りが捧げられた。
また、儀式の後半に行われた十字架の崇敬では、教皇が参列者らを代表して崇敬を行った。
この日、祭壇前には、ローマの聖マルチェロ教会の十字架が立てられた。1400年代の作であるこの木彫のイエスの磔刑像は、1519年に同教会をほぼ全焼させた火災の中で焼け残り、1522年、ローマがペスト感染に襲われた際に、その鎮静を祈願する宗教行列で掲げられた歴史がある。
教皇は、覆いをとられた十字架を見つめ、磔刑のイエス像の足元にたたずみ、祈り続けられた。
最後に聖体拝領が行われたが、聖金曜日にミサは捧げられないため、参列者らは前日聖別された聖体を受け、沈黙のうちに解散した。