受難の主日:教皇、しもべとなられたイエスを観想
「受難の主日」と共に、4月5日(日)、カトリック教会の典礼暦は「聖週間」に入った。
「聖週間」は、復活祭直前の一週間を指す。キリストの受難を記念する「聖週間」は、キリストのエルサレム入城と受難への歩みの開始を観想する「受難の主日」に始まる。
そして、「聖木曜日」午後の「主の晩餐」のミサから、「聖金曜日」の「主の受難の儀式」、「聖土曜日」の「復活の聖なる徹夜祭」に至る、「過ぎ越しの聖なる三日間」によって、教会の典礼は一年間の頂点を迎える。
新型コロナウイルスの世界的感染拡大を背景に記念された今年の「聖週間」初日、教皇フランシスコはバチカンの聖ペトロ大聖堂で「受難の主日」のミサを、ごく少人数の協力者と共に捧げられた。
「受難の主日」は「枝の主日」とも呼ばれ、ろばの子に乗りエルサレム入りしたイエスを、人々が服や枝を道に敷き、歓呼して迎えたことにちなみ、ミサの前に、参加者らは枝を掲げて宗教行列を行うのが習わしとなっている。
教皇と参加者らは、大聖堂奥の、オリーブやヤシを飾った「司教座の祭壇」前で、小さな宗教行列を行った。
福音朗読では、マタイによる福音書から、イエスの受難(26,14-27,66)が朗読された。
教皇は説教で、わたしたちの救いのために「自らしもべとなられた神」の御前で、奉仕するために生きる恵みを祈り求めるよう招かれた。
そして、パンデミック危機を生きる人々に、足りない物事だけにとらわれず、自分たちに可能な善いことを考えるよう勇気づけられた。
「受難の主日」のミサの教皇の説教は以下のとおり。
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イエスは「かえって自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2,7)。使徒パウロのこの言葉に導かれて、聖週間に入りましょう。そこでは、神の御言葉が繰り返し、しもべとしてのイエスの姿を示し続けます。
聖木曜日、しもべは弟子たちの足を洗います。聖金曜日、イエスは苦難と勝利のしもべとして(参照:イザヤ52,13)表されます。それは、明日、受難の月曜日に、「見よ、わたしのしもべ、わたしが支える者を」とイザヤの預言に聞くとおりです。
神は、「自らしもべとなる」ことで、わたしたちを救われました。本来、わたしたちは自分たちが神に仕えるものと考えるでしょう。しかし、神はわたしたちに無償で仕えてくださいました。なぜなら神自らが最初にわたしたちを愛してくださったからです。愛された経験なしに、愛するのは難しいことです。神から仕えられた経験なしに、仕えるのはもっと難しいことです。
神はわたしたちにどのような形で仕えてくださったのでしょうか。それはご自分のいのちをわたしたちに与えることによってでした。神にとってわたしたちは大切であるがゆえに、高い犠牲を払われたのです。フォリーニョの聖アンジェラはイエスがこうおっしゃるのを聞きました。「わたしはあなたを無駄に愛したのではない」。
イエスの愛は、わたしたちのためにご自分のいのちを犠牲にされるほどのものでした。そして、イエスはわたしたちの悪をすべてご自分に背負われました。これはわたしたちを驚愕させるものです。神はわたしたちの罪がご自身を攻撃するがままにさせながら、わたしたちを救われたのです。謙遜と忍耐、そしてしもべの従順、また特に愛の力だけをもって、抵抗することはありませんでした。
このイエスの奉仕を支えられたのは御父でした。イエスはご自分を攻撃する悪に対して逃げることなく、その苦しみに耐えられました。それは、わたしたちの悪が善によってのみ打ち負かされるため、愛を隅々まで行きわたらせるためでした。
主はわたしたちに仕えてくださいました。そして、裏切られ、見捨てられるという、最もつらい状態を体験されました。
裏切り。イエスは、ご自分を売り渡した弟子から裏切りを受け、またご自分を重ねて否定した弟子からの裏切りも受けました。イエスは人々からの裏切りを受けました。イエスに向かって上がっていた人々の歓声は、やがて「十字架につけろ」(マタイ27,22)という叫びに変わりました。イエスは宗教家たちから不当に罪に定められ、政治家たちからは責任逃れをされるという裏切りを受けました。
わたしたちの人生で受けた、大小の裏切りを考えましょう。堅固な信頼が裏切られたのを知ることは恐ろしいことです。それによって心の底に生まれる失望は、人生の意味さえ失わせるほどです。こうしたことが起きるのは、わたしたちが愛され、愛するために生まれたからです。中でも最もつらいのは、誠実でいること、近くにいることを約束した人から裏切られることです。愛である神にとって、裏切りがいかにつらいものであったか、わたしたちは想像することもできません。
わたしたちの内面を見つめてみましょう。わたしたちが自分自身に正直ならば、自分の不誠実さを見いだすことができるでしょう。どれほどの欺瞞、偽善、不忠実があることでしょう。どれほどの良い考えが葬られ、どれほどの約束が守られなかったことでしょう。どれだけの決意を無駄にしたことでしょう。
主は、わたしたちの心をわたしたち以上に知っておられます。わたしたちがいかに弱く、気まぐれで、何度もあきらめ、立ち直るのにどれだけ苦労し、ある種の傷をいやすのがどれだけ難しいかを、主はご存じです。
主はわたしたちを助け、わたしたちに仕えるために、どうされたでしょうか。それは主が預言者を通して言われたとおりです。「わたしは背く彼らをいやし、喜んで彼らを愛する」(ホセア14,5)。
主はわたしたちをいやし、ご自分にわたしたちの不誠実を引き受け、わたしたちの背きを取り去ってくださいました。わたしたちは、自分には無理だという怖れに意気消沈する代わりに、眼差しを十字架に向けて上げ、その抱擁を受けて言うのです。「わたしの不誠実はあの十字架の上にあるのだ。イエスよ、あなたはそれを御身に引き受けてくださいました。あなたの御腕を広げてください。あなたの愛でわたしを支え続けてください…こうして、わたしは前に進むことができます」。
見捨てられるということ。今日の福音朗読で、イエスは十字架上でただ一つの言葉を発します。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27,46)。これは力強い言葉です。イエスは、逃げた弟子たちから見捨てられたことに苦しみました。しかし、そこには御父がおられました。孤独の深淵の中で、イエスは初めて御父を「神」と呼びます。そして、御父に向かって大声で、最も深い苦しみと共に「なぜ」と叫ばれました。「なぜあなたまで、わたしをお見捨てになったのですか」。実際には、この言葉は詩編の言葉です(参照:詩編22,2)。イエスはこの祈りの中に究極の苦悩を込めたとも言われます。実際、イエスはその苦悩を体験しました。それは最も深い苦悩でした。その時、イエスが発したその言葉を、福音書は証ししているのです。
これらのすべての理由は何でしょうか。それは、わたしたちの救いのためなのです。それは、わたしたちが行き詰っても、追い詰められても、光や出口が見えなくても、神が答えてくださらないように見える時でさえも、わたしたちが独りではないことを思い出すためなのです。
イエスは完全に見捨てられるという体験をしました。しかし、それはこの最も疎外された状況の中で、わたしたちにあまねく連帯されるためでした。それは、わたしのために、あなたのために、「恐れるな。あなたは独りではない。わたしは常にあなたのそばにとどまるために、あなたの苦悩のすべてを体験した」と言われるためでした。裏切りと放棄に至るまで、わたしたちの最も激しい苦悩の深淵に降りて来られるまで、イエスはこれほどまでに、わたしたちに仕えられたのです。
今日、パンデミックの悲劇において、崩れ去った多くの確実性、裏切られた多くの期待を前に、見捨てられた思いに苦しむ中、イエスはわたしたち一人ひとりに呼びかけます。「勇気を出しなさい。わたしの愛に心を開きなさい。あなたを支える、神の慰めを感じるであろう」と。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、裏切りと放棄を味わうまでにわたしたちに仕えられた神の御前で、わたしたちに何ができるでしょうか。わたしたちが創造されたそのわけを裏切らず、本当に大切なことを放棄しないことです。わたしたちは、神を愛し、隣人を愛するためにこの世にいます。他は過ぎ去り、これだけが残ります。わたしたちが体験しているこの危機は、本当に大事なことに真剣に向き合い、そうでないことにとらわれないように、また、奉仕のない人生は意味がないということを再発見するようにと促します。なぜなら、人生は愛によって量られるからです。
この聖週間、わたしたちは家にいて、イエスの十字架を前にしています。それは神の私たちに対する愛の大きさを表しています。いのちを捧げるほどにわたしたちに仕えることを望まれた神の御前で、奉仕するために生きる恵みを祈り求めましょう。苦しむ人、助けを必要とする人とつながりを持つよう努めましょう。足りないものだけを考えず、わたしたちにできる善いことを考えましょう。
「見よ、わたしのしもべ、わたしが支える者を」。受難においてイエスを支えられた御父は、奉仕においてわたしたちをも支えてくださいます。もちろん、家庭において、また社会において、愛すること、祈ること、他者の世話をすることは、時に犠牲を伴うでしょう。それは十字架の道行に思われることもあるでしょう。しかし、奉仕の道は、勝利への道です。それはわたしたちを救い、いのちを救う道です。
創設から35年目を迎える今年の「世界青年の日」において、特に若者たちに呼びかけたいと思います。親愛なる友の皆さん、この日々、光をあびた、真の英雄たちを見つめてください。彼らは名声も富も成功も求めず、隣人に奉仕するために自分自身を捧げる人たちです。神と人々のために人生を捧げることを恐れてはなりません、むしろ、そうすることで、それを得るのです。なぜならそれは与えることで、受け取る恵みだからです。なぜなら最も大きな喜びは、愛にためらいなく「はい」と答えることだからです。それは、イエスがわたしたちのためになさったように。