聖木曜日:教皇、すべての司祭たちを心に留める、主の晩さんのミサ
カトリック教会の典礼は、「聖木曜日」4月9日午後より、「過ぎ越しの聖なる三日間」に入った。
「聖木曜日」は、復活祭直前の一週間「聖週間」中の木曜日をいう。
主の受難と死、復活を記念する「過ぎ越しの聖なる三日間」は、教会の典礼の一年の周期の頂点である。聖なる三日間は、「聖木曜日」の「主の晩さんの夕べのミサ」から「復活の主日」の「晩の祈り」まで続く。
「過ぎ越しの聖なる三日間」の始まりを告げる「主の晩さんの夕べのミサ」は、イエスが最後の晩さんで、聖体とミサ聖祭、司祭職を制定したことを記念する。
教皇フランシスコは、この日の夕刻、バチカンの聖ペトロ大聖堂の「司教座の祭壇」で、「主の晩餐の夕べのミサ」を司式された。
この儀式は、新型コロナウイルスによる世界的危機を背景に、教皇とミサに仕える人々、そしてごくわずかな会衆によって、特別な形をとりながらも、厳かな雰囲気のうちにとり行われた。
教皇はミサ中、原稿を用いずに短い説教を行われた。
この中で、教皇は、御体と御血に与るように自らわたしたちを招かれるイエス、パンとぶどう酒の形態をもって、わたしたちと共におられ、わたしたちの中に留まり、働かれる主の神秘を観想された。
最後の晩さんでイエスがペトロの足を洗った出来事とその時に交わされた言葉を振り返った教皇は、このエピソードは、天国に入るための条件は奉仕することであると示している一方で、神のしもべ、わたしたちのしもべとなられた主に、自らを洗っていただき、それによって成長させられ、また赦される必要をも示している、と語られた。
教皇は、このミサで、主のために自らを捧げ、人々に奉仕するすべての司祭たちを心に留めずにはいられないと述べられた。
特にこのパンデミックの危機の中で、病者への配慮のために命を落とした多くの司祭たち、また医師や看護師たちを思い起こした教皇は、これらの人々はわたしたちの身近にいる聖人たちである、と話された。
教皇はまた、他の司祭たちのスキャンダルによって人々から心無い言葉で傷つけられている司祭や、何をすべきか悩み、壁に突き当たり苦悩する司祭らを励まされた。
教皇はすべての司祭に対する恵みを主に感謝された。そして、ペトロのように頑なにならずに、主に足を洗っていただき、赦されることで、赦すための大きな心を得るようにと、司祭たちを力づけられた。
主の晩さんミサの特徴の一つとして、イエスが自ら弟子たちの足を洗い、愛と奉仕の模範を示したことを思い起こす「洗足式」がある。教皇はこれまで「聖木曜日」に刑務所や移民センターなどでミサを捧げ、「洗足式」を行ってきた。しかし、今年は、感染防止に配慮し、ミサ中「洗足式」は行わなかった。
また、同様の事情から、このミサの別の特徴である、聖別された聖体を安置所に運ぶための聖堂内の行列と安置後の聖体の前での礼拝(聖体安置式)も行われなかった。
一方、聖木曜日の午前に教皇がローマ教区の主任司祭らと捧げる「聖香油」のミサは、延期されることになった。