神を仰ぎ見るための、心の清さを考える、教皇一般謁見
教皇フランシスコは、4月1日(水)、一般謁見をバチカン宮殿よりビデオを通して行われた。
この日のカテケーシス(教会の教えの解説)で、教皇はマタイ福音書中の「真福八端」の6番目の教え、「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る」(同5,8)を取り上げられた。
教皇フランシスコの講話の要約は次のとおり。
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親愛なる兄弟姉妹の皆さん
今日は、「真福八端」の6番目の教えを一緒に読みましょう。この教えは、神を見るためには、心の清さが必要と説いています。
詩編はこう言います。「心よ、主はお前に言われる、『わたしの顔を尋ね求めよ』と。主よ。わたしは御顔を尋ね求めます。御顔を隠さないでください」 (参照:詩編27,8-9)。この表現は、神との個人的な絆に対する渇きをあらわしています。
ヨブ記でも、神との誠実な関係をこのように表現しています。「あなたのことを耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」 (ヨブ42,5)。
神とのこのような親密さに到達するには、すなわち神を目で仰ぎ見るに至るには、どうしたらいいのでしょうか。
たとえば、エマオの弟子たちは、イエスが一緒におられるにも関わらず、「彼らの目はさえぎられていて、イエスだとはわかりませんでした」(参照:ルカ24,16)。このエマオの旅は、最後にイエスが弟子たちの前でパンを裂き、彼らの目を開くところで頂点を迎えます。しかし、最初のうち、イエスはこのように弟子たちを叱らなければなりませんでした。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く、預言者たちの言ったことをすべて信じられない者たち」(ルカ24,25)。そうです。彼らが目を開けない原因はここにあるのです。それは彼らの分別のない、鈍い心のためなのです。
「真福八端」のこの教えは、神を観想するには、潜心し、神にそこに入っていただくことだと説いています。「神は、わたし自身以上に、わたしの近くにおられる」と、聖アウグスティヌスも言っているとおりです。神を仰ぎ見るには、眼鏡や見方を変える必要はありません。心を欺瞞から解放することが必要なのです。
わたしたちの最悪の敵はしばしば自分の心の中に隠れている、これに対する気づきは、決定的な成熟を表すものです。もっとも高貴な戦いは、わたしたちの罪を生む、内的欺瞞に対する戦いです。
ここで重要なのは、「心の清さ」とは何であるかを理解することです。聖書にとって、心とは単に感情をつかさどるものではなく、人間の最も内的な場所、人が自分自身であるための場所です。
マタイ福音書でイエスはこう言います。「あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」(マタイ6,23)。この「光」は心の眼差し、未来を見つめ、現実を読み取る視点です。
「清い」とはどういう意味でしょうか。「心の清い人」は、神との関係にふさわしく心を保ちながら、神の現存を生きる人です。こうしてこそ、神と一致した、まっすぐで、シンプルな人生を得られるのです。
清い心は、解放と放棄を必要とする道のりの実りです。心の清さは最初からそうであるのではなく、内面を簡素にし、自分の中に悪を拒むことを学びながら生きることで得られるのです。
この内面の浄化は、聖霊に導かれ、心の中の悪の影響下にある部分を認めることを必要とします。この心の歩みを通して、わたしたちは「神を見る」に至ることができるのです。
この教えは、「真福八端」における他の教えと同様、未来的、終末的な視点を帯びています。それは、わたしたちが向かう天の国の喜びを示しています。また、そこには別の視点もあります。神を見るとは、様々な出来事の中に神の御摂理のご計画を読み取り、神の現存を秘跡の中に、兄弟たちの中に、特に貧しい人、苦しむ人の中に見出すことでもあるのです。
この教えは、「真福八端」に先に登場した他の教えの実りでもあります。もし、わたしたちが自分たちの内にある善への渇きに耳を傾け、憐みに生きることを自覚するならば、天へと導く、一生続く解放への歩みを始めることができるのです。それは、真剣さと、聖霊の働きを必要とする歩みです。わたしたちの内におられる神の御業は、人生の試練と浄化において働き、わたしたちに大きな喜びと真の平安をもたらすのです。