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長崎市・平和公園での平和祈念式典 2020年8月9日 長崎市・平和公園での平和祈念式典 2020年8月9日 

長崎で75回目の原爆忌

長崎への原子爆弾の投下より、今年8月9日で75年が過ぎた。この日、同市の平和公園で平和祈念式典が行われた。

長崎への原子爆弾の投下より、今年8月9日で75年が過ぎた。

同日、長崎市の平和公園で開かれた平和祈念式典で、田上富久市長は「平和宣言」において、同市の被爆から「4分の3世紀がたった今も、私たちは『核兵器のある世界』に暮らしている」 ばかりか、核不拡散条約発効から50 年にも関わらず、「核保有国の間に核軍縮のための約束を反故にする 動きが強ま」り、「核兵器が使用される脅威が現実のものとなっている」と指摘した。

こうした中、同市長は、昨年の教皇フランシスコの長崎訪問に言及。教皇の「核兵器から解放された平和な世界を実現するためには、すべての人の参加が必要です」、「今、拡大しつつある相互不信の流れを壊さなくてはなりません」という、二つの言葉を「鍵」として示した。

田上市長は、「新型コロナウイルス感染症、地球温暖化、核兵器の問題に共通するのは、地球に住む私たちみんなが“当事者”だということ」と述べ、「あなたが住む未来の地球に核兵器は必要ですか」と問いかけた。

「平和への誓い」では、被爆者を代表し、浦上教会に所属する信徒・深堀繁美さん(89)が、75年前の8月9日の筆舌に尽くしがたい体験を思い起こすと共に、昨年11月の教皇フランシスコの長崎訪問から得た勇気と使命について語った。

深堀さんは、2019年11月24日、教皇フランシスコの長崎訪問の際、爆心地公園で教皇と共に原爆犠牲者に花輪を捧げている。

当時、旧制中学3年生、神父になるために神学校で生活していた深堀さんは、勤労学生として造船所で働いていた時、被爆した。閃光に伏せた後、工場内のトンネルに逃げ込み、夕方、神学校に帰ったが、別の場所にいて、夜戻った5人の先輩は皆、一日もたたない間に亡くなってしまった。

翌日10日、歩いて実家に戻る途中、車輪のみ残した電車や、白骨化したり、真っ黒になった非常に多くの犠牲者たちを目の当たりにし、水を求める人々の声を聞いた。

浦上天主堂は崩れ、実家は倒れていた。原爆で深堀さんは姉二人と弟、妹を失ってしまった。

負傷もしていない人々が次々亡くなるのを見て、「次は自分が死んでしまうのではないかという恐怖感が、なかなか振り払えなかった」と深堀さんは重い体験を振り返り、「このような思いは、もう二度とどこの誰にもしてほしくない」と話した。

教皇フランシスコが昨年の長崎訪問で、39年前の広島訪問でヨハネ・パウロ2世が述べた「戦争は人間のしわざです」という言葉を「より具体化」し「核兵器廃絶に踏み込んだ」言葉を残したことに、大きな勇気づけを得た、と深堀さんは語った。

そして、教皇の「長崎は核攻撃が人道上も環境上も壊滅的な結末をもたらすことの証人である町」との言葉に、「私たち長崎の被爆者の使命の大きさを感じ」た、と述べている。

深堀さんは、「『平和な世界を実現するには、すべての人の参加が必要』との教皇の呼びかけに呼応し、一人でも多くの皆さんがつながってくれること」を願い、特に若者たちに、「この平和のバトンをしっかりと受け取り、走り続けて」欲しいと呼びかけた。

89歳の深堀さんは、「被爆者には、もう限られた時間しかない」と語り、被爆から75年、被爆者が次第といなくなる中、「『核兵器はなくさなければならない』との教皇のメッセージを糧に、『長崎を最後の被爆地に』との思いを訴え続けていく」と、決意を力強く述べた。

09 8月 2020, 16:29