「兄弟に忠告するには」教皇、日曜正午の集いで
教皇フランシスコは、9月6日(日)、バチカンで正午の祈りを巡礼者と共に唱えられた。
集いの説教で教皇は、この日の福音朗読箇所、兄弟に対する忠告をめぐるイエスの説教(マタイ18,15-20)を取り上げられた。
教皇は、共同体的・教会的なこの教えは、交わり、すなわち教会の保護と、個人の良心への配慮と尊重という、キリスト教生活の2つの側面について考えさせるもの、と説明。
罪を犯した兄弟に忠告するために、イエスはその人の回復のための道のりを、3つの段階に分けている、と述べられた。
まず、イエスは「行って、二人だけのところで忠告しなさい」(同18,15)と言う。教皇は、これはその人のあやまちを皆の前にさらさず、思慮深く兄弟と向き合い、裁くのではなく、彼がしたことを理解できるように助ける、ということを意味している、と話された。
イエスのこの教えを実践することはけっして容易ではない、と教皇は述べ、その理由として、忠告された人のネガティブな反応が怖い、あるいはその人に忠告できるほどの信頼関係がない、などを挙げられた。
このように、よい意図を持っていても、最初の試みが失敗した場合、他の人の助けを借りるよう、イエスは教える。「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の口によって確定されるようになるためである」(同18,16)。
教皇はこれについて、一見、相手に対して敵対しているかのように思われるが、実際はその人を偽の訴えから守るためであり、イエスはそれ以上に、二人の証人たちが、この人を訴え裁くのではなく、助けることを望まれている、と話された。
二人、三人の兄弟たちの愛も、この人に聞き入れてもらうには不十分であった場合、すなわち二番目の試みもうまくいかなかった場合、イエスは「教会に申し出なさい」(同18,17)と教える。
教皇は、ある状況では、共同体全体でこの問題にあたることになるが、それは、他の兄弟たちも無関心ではいられない事柄もあるからであり、また、その人の回復のためにはより大きな愛が必要だからでもある、と話された。
しかしながら、時には、共同体の愛でさえも、十分でないこともある。この場合、イエスは、「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」(同上)と言う。
見放したようなイエスのこの表現は、実は神の手にこの兄弟を委ねるようにと招くものであり、それは御父だけがすべての兄弟たちの愛を合わせたよりも、ずっと大きな愛を示すことができるからである、と教皇は説かれた。
このイエスの教えは、わたしたちを大いに助けるもの、と述べた教皇は、ある人があやまちを犯すとわたしたちはすぐに他者に語ってしまうが、噂話は、共同体の心を閉じ、教会の一致を損なってしまう、と注意を促された。
わたしたちの共同体が、相互の赦しと神のいつくしみに根差した、兄弟愛に満ちた新たな関係を常に築くため、兄弟的な忠告をよい習慣にできるよう、教皇はおとめマリアの助けを祈られた。