「権威とは、奉仕」教皇、日曜正午の集いで
10月4日(日)、教皇フランシスコは、バチカンで正午の祈りを唱えられた。
教皇の新回勅「Fratelli tutti(フラテッリ・トゥッティ)」が発表されたこの日、バチカンの広場には多くの信者らが集い、教皇とその喜びを分かち合った。
教皇は信者に向けた挨拶で、ご自身の三番目の回勅にあたる「Fratelli tutti」は、兄弟愛と社会的友愛を扱ったものであると説明された。
また、先月初日より、他のキリスト教教会と共に記念されていた、被造物を保護するための祈りと行動の 月間、「被造物の季節」が、この日終了したことから、教皇は統合的エコロジーのために取り組む多くのカトリック系の運動関係者に挨拶をおくられた。
同時に、教皇は、この10月4日、海洋で働く人々を支える司牧活動、ステラ・マリスが、スコットランドで誕生してから百年を迎えたことを紹介。この重要な節目を機会に、船員・漁業従事者とその家族らに教会の寄り添いを伝える、司祭やボランティアたちを温かく励まされた。
さらに、教皇は同日イタリア・ボローニャで、オリント・マレッラ神父(1882-1969)の列福式がとり行われたことを報告。キリストの聖心に従い、貧しい人々の父、弱き者たちの擁護者として生涯を捧げた同神父を、多くの司祭たちの模範、神の民のための謙遜で勇敢なしもべとして思い起こされた。
この日、教皇はお告げの祈りに先立つ説教で、マタイ福音書の「ぶどう園と農夫」のたとえを取り上げ、次のように説教を行われた。
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今日のミサの福音において (参照:マタイ 21,33-43)、イエスはご自分の受難と死を予見し、誤った道を歩もうとしている祭司長や長老たちを諫めるために、ぶどう園の邪悪な農夫たちのたとえ話を語られています。
祭司長や人民の長老たちは、悪意ある計画を練り、イエスを亡き者にする方法を探していたのです。
たとえ話は、自分のぶどう畑の世話を十分にしたぶどう園の主人を描いています。
旅に出なければならない主人は、農夫たちにそのぶどう園を任せて出発しました。
そして、収穫の時が近づいた時、主人は自分の僕たちを収穫の受け取りのために送りました。しかし、ぶどう園を託された農夫たちは、主人の僕たちを歓待するどころか、虐待し、かつ、あろうことか殺害してしまいます。ぶどう園の主人は、さらに多くの僕たちを送り込みます。しかし、彼らも前の僕たちと同様に取り扱われてしまいます (参照:同 21,34-36)。
主人が、僕たちではなく、自分の一人息子を送ろうと決めた時に、最悪の事態が起こります。農夫たちは、主人の息子に対しても何らの尊敬も払わず、かえって彼を亡き者にすれば、ぶどう園を自分たちのものとすることができるのだと思い込みます。そして、主人の一人息子を殺害してしまいます(参照:同 21,37-39)。
ぶどう園のたとえ話が意味するところは明らかです。主が心を込めて世話し、選んだのは、神の民です。主人から送られる僕たちは、神から送られた預言者たちのことです。そして、主人の一人息子は、イエスご自身です。預言者たちが拒絶されたように、キリストも退けられ、殺害されました。
この話の最後に、イエスは民の頭たちに質問します。「ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか」 (同 21,40)。彼らは、話の当然の帰結として、自分たち自身の懲罰を宣言します。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない」(同 21,41)。
主は、大変厳しいこのたとえ話をもって、聞く者たちにはっきりとその責任に気づくよう仕向けます。この戒めは、かつてキリストを拒否した者たちに向けたものだと思い違いしないようにしましょう。それは、すべての時代の人々、わたしたち自身にも向けられているのです。今日もまた神は、ご自分がそのぶどう畑に送り込んだ人々、すなわち、わたしたち皆から、収穫を期待しておられます。
いかなる時代にも、権威を持つ者は、それがいかなる権威であっても、教会においても、また社会においても、神のためにではなく、自分の利益のために、権利を利用する誘惑に出会います。イエスは、本物の権威とは、他者に奉仕するためであって、他者を搾取するためではないと言われます。
ぶどう園は主のものであって、わたしたちのものではありません。権威とは、奉仕です。ですから、権威は人のために行使されるべきであって、福音を広めるため、すべての人々の善のために、行使されなければなりません。 教会の中でも、権威ある者たちが自分自身の利益だけを考えているのを見るのは、大変悲しいことです。
使徒聖パウロは、今日のミサの第2朗読の中で、どのようにして主のぶどう園における善い農夫になれるかを語っています。真実で、気高く、正しく、清く、愛すべき、何らかの徳や称賛に値することは、毎日の絶え間ない努力の結果だと言っています(参照:フィリピ 4,8)。
このようにすれば、わたしたちはますます聖性に富んだ教会となれるでしょう。限りない優しさをもってわたしたちを愛してくださる御父に、また救いを与え続けてくださる御子と、わたしたちの心を開きより豊かな善に向けて押し出してくださる聖霊に、光栄を帰することができるでしょう。
聖母マリアに心を向けましょう、そしてロザリオの月であるこの十月に、聖なるロザリオの祈りへの熱心を新たにしましょう。