平和の集い:キリスト教諸教会関係者によるエキュメニカルな祈り
10月20日、ローマのカンピドリオで開催された平和の集いの一環として、キリスト教諸教会の関係者によるエキュメニカルな祈りが、サンタ・マリア・イン・アラチェリ教会でとり行われた。
この祈りには、教皇フランシスコ、エキュメニカル総主教府のバルトロメオス総主教、ドイツ福音主義教会常議員会議長ハインリヒ・ストローム師らをはじめ、カトリックや、プロテスタント、正教会の関係者が参列した。
このエキュメニカルな祈りの集いで説教を行われた教皇は、先に朗読されたマルコ福音書の一節、十字架につけられたイエスに向かって、「十字架から降りて自分を救ってみろ」(マルコ15,30)と、通りがかりの人々がののしる場面を観想された。
自分、あるいは自分が属する集団だけを救おうとする思いは、誰の中にも潜む決定的な誘惑であり、それは非常に人間的な本能であると同時に、十字架につけられた神に対する挑戦でもある、と教皇は話した。
「十字架から降りて自分を救ってみろ」という言葉は、憐みを欠きながら、しかしイエスが十字架から降りる奇跡だけを見たい心を表すものと、教皇は指摘。
おそらく、時にはわたしたちも、憐み深い神よりも、人々が目を見張るような業を世界に見せつける、力ある神の方を好むことがあるかもしれないが、それは神ではなく、わたしたちの自我が望むものに過ぎない、と語られた。
「自分を救ってみろ」と、祭司長や律法学者たちもイエスを侮辱したが、彼らがイエスを非難したのは、イエスの存在が彼らの立場を危うくしたからである、と教皇は話した。
わたしたちも自分を救うために他者を十字架につけることがある、と教皇は述べつつ、これに対し、自ら十字架にかかり、他者に悪をなすりつけることがない、イエスの姿を示された。
教皇は、祭司長や律法学者たちのような宗教に関わる人々が、「他人は救ったのに、自分は救えない」(マルコ15,31)と、イエスを「他人を救った」という理由であざけっている矛盾に注目。
「しかし、自分を救う福音は、救いの福音ではなく、これに対し、真の福音は、他者の十字架を自らに背負うものである」と説かれた。
また、カルワリオで起きたことは、わたしたちを救うために来られた神と自分だけを救いたい人間との対決、神における信仰と「自分教」との対決であった、と話された。
「十字架から赦しがわき出で、そこに兄弟愛が再び生まれた」と述べた教皇は、「十字架は、わたしたちを兄弟とする」というベネディクト16世の言葉(2008年の十字架の道行)を引用された。
わたしたちがより一致し、より兄弟愛に満ちた者となれるよう、十字架にかかられた神に願い、わたしたちの救いのためにご自身を無にされた(参照:フィリピ2,7)主に学ぼう、と教皇は招かれた。
そして、わたしたちが生ける神の信じうる証し人となるために、兄弟愛の道を共に歩いて行けるようにと、主の助けを祈られた。