「詩編は偉大な祈りの学び舎」教皇一般謁見
教皇フランシスコは、10月21日、バチカンのパウロ6世ホールで、水曜恒例の一般謁見を行われた。
教皇は、日ごろ、巡礼者たちとの親しい交流を大切にしておられるが、このところの新型コロナウイルスの感染再拡大を受け、この日は、舞台上からの挨拶に留まられた。
この席で教皇は、「皆さんの近くに行けないのは残念ですが、近くで手を取り挨拶する代わりに、遠くから挨拶を交わしても、わたしは心を携えて皆さんのそばにいることを忘れないでください」と話された。
謁見中のカテケーシス(キリスト教生活に導くための、キリスト教要理の教え)で、教皇は、「祈り」をテーマに、先週に続いて「詩編の祈り」を考察された。
詩編の中には、限りなく傲慢で、超越的存在への関心のない、神などいないかのように振る舞う、自分の言動を顧みない「不信心」な人がしばしば登場する、と教皇は指摘。こうした対比をもって、詩編は、人生の基本、人間のあるべき姿を祈りを通して教えている、と話した。
修得の師たちが「神への聖なる畏れ」と呼んだ絶対的かつ超越的存在に基準を据えることは、わたしたちをより人間的にし、自分だけで救いを得ようとすることの限界を教える、と教皇は述べ、「祈りは、人類の救いである」と語られた。
「祈る時、あらゆる物事は奥行きを獲得する」と教皇は述べると共に、「祈りのあるところでは、兄弟姉妹はもとより、敵さえも重要な存在となる」「神を礼拝する者は、神の子らを尊重し、神を尊ぶ者は、人間を尊ぶ」とも話された。
教皇は、「祈りとは人生の不安を和らげる安定剤ではなく、むしろ、一人ひとりの責任を高めるもの」と説き、それはイエスが弟子たちに教えた「主の祈り」にはっきりと示されている、と教えられた。
詩編は偉大な祈りの学び舎であり、そこには洗練された言葉ばかりではなく、時には人生に刻まれた生々しい傷跡が見られる。一人称において、最も内面的で個人的な思いや問題を神にゆだねるものでありながら、詩編は皆が唱えることのできる、共通の遺産である、と教皇は語った。
また、詩編の祈りの中には、常にこの世が存在し、「虐げに苦しむ者と、呻いている貧しい者のために、今、わたしは立ち上がり、彼らがあえぎ望む救いを与えよう」(詩編12,6)のような、貧しい人々の救いとなる神の約束や、「人間は栄華のうちに悟りを得ることはない。屠られる獣に等しい」(同49,21)のような、世俗的な富への警告を見出すことができる、と話された。
「神がおいでになるところには、すなわち人間がいる」と述べた教皇は、ヨハネの手紙1の「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです」(1ヨハネ4,19-21)という一節を引用。
「すべての人に刻まれた神の御顔を否定する者の『無神論主義』を神は我慢できない。それを認めることができないのは、冒涜である」と教皇は説かれた。
教皇は、わたしたちが「不信心」に陥らないよう、すなわち、神が存在しないかのように、貧しい人々が存在しないかのように生き、祈ることがないよう、詩編の祈りがわたしたちを助けてくれるようにと願われた。