「主を探し求め、聖心の扉を叩く」教皇、日曜正午の祈り
教皇フランシスコは、6月20日(日)正午、お告げの祈りをバチカンの広場に集った巡礼者らと共に唱えられた。
祈りの前の説教で、教皇はこの日の福音朗読箇所、マルコ福音書中のイエスが突風を静めるエピソード(マルコ4,35-41)を取り上げられた。
このエピソードで、弟子たちは舟を漕いで湖を渡る中、激しい突風と波に襲われ、彼らの舟は沈むかと思われた。イエスは弟子たちと船上にいたが、艫(とも)の方で枕をして眠っておられた。恐れにかられた弟子たちは、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(同4,38)と叫んだ。
教皇は、わたしたちも大きな希望が消えた時や、不安にとらわれた時、多くの問題に囲まれた時、前に進む力もない時など、人生の試練にあって、「なぜ沈黙して、わたしのために何もしてくださらないのですか」と、主に叫んだことがあるだろう、と述べられた。
また、このような状況の中で、わたしたちもイエスの弟子たちのように恐れに押しつぶされ、物事が見えなくなり、何が大切かわからなくなることがよくある、と話された。
弟子たちが恐れていた時、イエスは眠ってはいたが、彼らと共にいて、そこで起きていたことを一緒に体験しておられた、と述べた教皇は、「主はそこにおられ、わたしたちの方から主を引き入れ、その体験の中心に据えることを待っておられた」と語られた。
主が眠っておられたことは、わたしたちを驚かせ、当惑させるが、「イエスの眠りはわたしたちの方こそ目覚めるようにと挑発している」と教皇は述べ、「イエスの弟子であるためには、神がおられることを信じるだけでは足りず、神と積極的に関わり、時には神に向かって声を上げることをも必要」と話された。
福音書は、弟子たちが近づいてイエスを起こし、話しかけたことを記している。教皇は、「わたしたちは独りでは何もできない、イエスが必要だと認めること、これが信仰の始まりである」と説かれた。
そして、「わたしたちが神に向かって叫ぶ時、神はわたしたちを通して素晴らしい業を行われる。祈りの静かで特別な力が奇跡を起こすのである」と教皇は述べた。
弟子たちの懇願を聞き、突風と波を静めたイエスは、弟子たちに言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(同4,40)。教皇は、「弟子たちが恐れにとらわれたのは、波ばかりを見つめ、イエスを見つめなかったからである」と語られた。
「わたしたちも主の御もとに行き、主に自分の苦悩を投げかけるよりも、問題ばかりを見つめていることがどれだけ多くあるだろうか」と述べた教皇は、あくことなく主を探し求め、その聖心の扉を叩き続ける恵みを祈られた。