「今日の世界の荒れ野に希望の恵みを」教皇、アテネでミサ
ギリシャ訪問中の教皇フランシスコは、12月5日(日)、首都アテネでミサを司式された。
同日午前、レスボス島で移民・難民との出会いを持たれた教皇は、午後、アテネに戻り、市内のメガロン・アテネコンサートホールで、同国の信者たちのためにミサを捧げられた。
このミサはラテン典礼で、ギリシャ語を中心に、信徒の祈りにアルメニア語、英語を交えて行われた。
教皇は、この日の福音朗読、ルカ福音書の、洗礼者ヨハネが悔い改めの洗礼を宣べ伝える場面(3,1-6)を取り上げ、この中で強調される「荒れ野」と「悔い改め」という二つの言葉を鍵に、説教を行われた。
「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」(ルカ3,2)。
教皇は、神の言葉が突然、荒野にいる無名の孤高の人物に降ったのはなぜだろうか、と問いながら、驚きに満ちた選択をされる神、小ささと謙遜さを愛される神は、その贖いを大きな都からではなく、砂漠から始められた、と話された。
神の心にかなうためには、知識があること、有名であることは保証にはならず、むしろ、砂漠のような内的貧しさを必要とする、と教皇は語った。
誰かが重要なことを告げようとする時、普通は多くの人がいて目立つ場所に行く、と教皇は述べつつ、しかし、ヨハネは荒れ野で説教し、まさに虚無が広がる場所で、主は栄光を啓示することを望まれた、と話した。
そして、そこに教皇は、神は御眼差しを悲しみや孤独に満ちた場所に注がれ、わたしたちの試練の時に、心の空洞に、人生の砂漠の中に訪ねて来られる、という励ましのメッセージを読み取られた。
洗礼者ヨハネは、休むことなく熱烈に悔い改めを説き続けた。悔い改めについて聞く時、悲しい気持ちになり、福音の喜びとは相容れないように感じるかもしれない、と教皇は述べた。
しかし、このような気持ちに陥るのは、回心を単なる倫理的な努めや、自分の力で得られるものと思い込んでいるからである、と指摘された。
神はわたしたちが思うよりもはるかに偉大な方、と述べた教皇は、わたしたちの力である神に信頼し、神を第一に据えるならば、すべては変容するだろう、と説かれた。
「今日の世界の荒れ野は希望に渇いている、希望の恵みを神に願おう」と教皇は招くと共に、聖母のように、わたしたちもまた「希望の証し人」となれるよう、聖なる御母の助けを祈られた。