「よき死の保護者、聖ヨセフ」教皇一般謁見
教皇フランシスコは、2月9日、バチカンのパウロ6世ホールで、水曜恒例の一般謁見を行われた。
謁見中、教皇は「聖ヨセフ」をめぐるカテケーシスを続けながら、この日は「よき死の保護者、聖ヨセフ」をテーマに話された。
教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。
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今日は、キリスト者たちが、「よき死の保護者」としての聖ヨセフに寄せる、特別な信心について考察したい。これは、ヨセフがおとめマリアとイエスに見守られながらナザレの家で亡くなったという考えから生まれたものである。
1世紀前の教皇、ベネディクト15世は「ヨセフを通して、わたしたちは直接マリアへと、そしてマリアを通して、あらゆる聖性の源であるイエスへと向かう」と記した。そして、「ヨセフは、イエスとマリアに付き添われて息を引き取ったことにより、臨終にある人の最も助けになる保護者として認められている」ことを理由に、信心会の人々に、死の床にある人のために聖ヨセフへの祈りを唱えることを励ますよう、司牧者らに願っている(参照:自発教令「ボヌム・サネ」1920年7月25日)。
「幸福の文化」は、死の現実を取り除こうとする。しかし、新型コロナウイルスによるパンデミックは、それを劇的な形で露わにした。多くの兄弟姉妹たちは、大切な人を亡くしても、そばにいることさえできず、こうした状況が死をより受け入れがたいものにした。
それにも関わらず、人々は自分たちの死という考えを何が何でも遠ざけようとし、こうすることで死の力を取り上げ、恐れを押しつぶしたと思い込んでいる。しかし、キリスト教信仰は、死の恐怖を追い払うのではなく、むしろそれと向き合うことを助けるものである。
死の神秘を照らす真の光は、キリストの復活から来る。聖パウロはこう記している。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたのある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(1コリント15,12-14)。
復活における信仰によってこそ、わたしたちは恐れに圧倒されることなく死の淵と向き合うことができる。それだけではない、わたしたちは死に前向きな役割を与えることさえできる。実際、キリストの神秘に照らされて死を思うことは、人生のすべてを新しい目で見ることを助ける。
葬儀の車の後ろに引っ越しのトラックを見ることは決してない。いつか死ぬならば、ため込むことは意味がない。わたしたちが積み上げるべきものは愛徳の業、分かち合う力、他者の必要を前に無関心でいない態度である。
いつか死ぬならば、兄弟姉妹や友人と喧嘩することに意味があるだろうか。他人に腹を立てる意味があるだろうか。死を前に多くの問題は大したものではなくなる。和解し、恨みや後悔なしに死を迎えるのはよいことである。
福音は、死は盗人のように来る、と教える。わたしたちはその訪れをコントロールしようとするが、それを避けることはできない。病者を治療するため人道的に可能な限りの手段を尽くした後の、さらなる過剰な医療は倫理的なものではなくなる。(カトリック教会のカテキズムn. 2278)
死を前にした人のクオリティ・オブ・ライフについては、人生の最後の道のりに備える人がそれをできるだけ人間的に迎えるための、いわゆる「緩和治療」を通し、医療が与えうる限りの助けに感謝しなくてはならない。
高齢者の死を経済的な理由などでいわば「計画的」に早めることは、人道的でも、キリスト教的でもない。お年寄りは、人類の宝のようにいたわるべきである。高齢者たちは、わたしたちより先に道を切り開き、多くの素晴らしいもの、記憶、知恵を残してくれた人々である。高齢者に愛情をもって接することは、子どもたちに優しく接することと同じ希望を持つものである。人間のいのちの始まりと終わりは常に神秘であり、尊重され、寄り添われ、ケアされ、愛されるべきものである。
わたしたちが死の神秘をできる限り良い形で生きることができるよう、聖ヨセフが助けてくださいますように。「アヴェ・マリア」の祈りにおいても、わたしたちは聖母に「今も、死を迎える時も、お祈りください」と願う。このカテケーシスの最後に、今、臨終の床にある人々、喪中の家族たちのために一緒に祈ろう。
「アヴェ・マリア…」