「十字架という王座から両腕を広げる王キリスト」アスティで教皇ミサ
教会の典礼暦で「王であるキリスト」を祝った11月20日(日)、教皇フランシスコは訪問先のイタリア北部アスティでミサをとり行われた。
このミサには、地元ピエモンテ州はもとより、リグーリア州など、北イタリア各地から信者らが訪れ、会場の司教座聖堂の内外をいっぱいにした。
教皇はミサの説教の冒頭で、このたび祭壇奉仕者への任命を受ける一人の青年を紹介しながら、将来的に司祭を目指しているこの青年のために、またアスティの教会に司祭への召し出しが欠けることのないように、祈ってほしいと願われた。
大地の豊かな実りと働き者の人々で知られるこの地方、ご自分の家族とゆかりあるこの土地を訪れ、自らのルーツを再び見出した思いがすると教皇は述べながら、それ以上に、この日の福音朗読(ルカ23,35-43)は、カルワリオという荒地に天国への種をまき、十字架の木によって救いの実をもたらしたイエスの受難の一場面を通して、わたしたちに「信仰のルーツ」を示してくれる、と話された。
「王であるキリスト」の祭日、教皇は、玉座に着いた力強い荘厳な王のイメージとは真逆の、十字架という王座からすべての人に両腕を広げるわたしたちの王、キリストを観想。
その抱擁の中に入ってこそ、わたしたちの苦しみや、悲しみ、弱さ、貧しさ、孤独、尊厳のない状態に寄り添うために、しもべとなり、ののしられ、嘲笑され、衣を取られ、受難に向かわれた神の、十字架のパラドックスを理解することができる、と説かれた。
今日、わたしたちの王は十字架の上から両腕を広げてわたしたちを見つめておられる、と述べた教皇は、その王に対し、傍観するのか、あるいは関わっていくのか、その選択はわたしたちに委ねられている、と話された。
信仰の危機や参加する信者の減少を前に、批判や議論だけに留まるのか、あるいは自覚して積極的に祈りや奉仕に取り組んでいくのか、十字架上に釘で打たれたキリストの手を見ても、自分たちの手はポケットに突っ込んだままなのか、あるいは社会や世界、教会のために何か努力するのか、と問われた教皇は、十字架上のキリストを見つめることで、自分自身をも見つめる勇気を得て、神への信頼と奉仕の道を歩むことができるようにと祈られた。