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教皇に選出された日 信者らを祝福するベネディクト16世 2005年4月19日 教皇に選出された日 信者らを祝福するベネディクト16世 2005年4月19日 

「神は愛」を教皇在位中の鍵として

ベネディクト16世は、教会のスキャンダルや出世主義を前に、回心と悔い改め、謙遜を呼びかけた。そして、世界に対し真に開いた教会となるために、物質的・政治的特権から解放された教会のイメージを提示し続けた。

アンドレア・トルニエッリ
バチカン市国

 一人の教皇の在位の終了を意味するのは、教皇の死ではない、ということが示されたのは、実に1417年以来のことであった。ベネディクト16世、ヨセフ・ラッツィンガーは、バチカンで2022年12月31日に逝去した。それは2013年2月11日、同教皇が、ラテン語で記された短い退位宣言を、呆然とする枢機卿たちの前で読み上げてから、およそ10年後のことであった。2千年の教会の歴史の中で、教皇が、教皇職の重みをもはや体力的に支えるには適さないという理由で、教皇の座を去るということはこれまでなかった。しかしながら、その3年前に出版されたインタビュー本「世の光」の中で、ベネディクト16世は、ジャーナリスト、ピーター・シーワルド氏に答え、ある意味で予告のごとく次のように述べている。「一人の教皇が、自分に託された責務を遂行するために、もはや体力的、精神的、霊的に適さないと明らかな自覚に達した時、教皇には退位する権利があり、またある状況においては、退位は義務でもあります」。ベネディクト16世の退位は、教会史上の前例として、非常に大きな重みを持つものである。しかしながら、ベネディクト16世をめぐり、ただこの退位だけを記憶することは、実に狭量と言えるだろう。

《若き神学者》公会議へ

 1927年、バイエルンの簡素で非常に敬虔なカトリック家庭に、警察官を父として生まれた、ヨセフ・ラッツィンガーは、前世期のカトリック教会を代表する一人であった。1951年、兄のゲオルグ師と共に司祭に叙階され、2年後、神学の博士号を取得。1957年に教理神学の教授としての資格を得、フライジング、ボン、ミュンスター、テュービンゲン、レーゲンスブルグで教鞭を取った。ベネディクト16世は、第2バチカン公会議の作業に実際に参加経験のある最後の教皇である。若くして、すでに高い評価を得た神学者、ラッツィンガー師は、改革派に近い立場を取る、ケルンのフリングス枢機卿の顧問として会議に参与した。彼は、教皇庁が準備し、司教らの意見によって取り消された文書を厳しく批判した人の一人であった。若き神学者、ラッツィンガー師にとって、公会議の文書は「急務の問題に回答を与えるものでなくてはならず、裁いたり、非難することなく、母性的な表現を用いて、できる限りの回答をするべきものであった。ラッツィンガー師は、来るべき典礼改革とその不可避性の理由を強調し、典礼の本質を再び見出すには、「ラテン語の壁をこじ開ける」必要があると述べていた。

ヨハネ・パウロ2世と共に、信仰の保護者として

 しかし、未来の教皇ベネディクト16世は、公会議後に訪れた混乱と、普遍性と神学における反論を直接体験することになった。信仰の本質的真理と、典礼における粗暴な実験をめぐる論争を目の当たりにすることになったのである。ラッツィンガー師は、公会議終了からわずか1年後の1966年に、すでに「キリスト教の価値の低下」が進んでいることを指摘している。1977年、パウロ6世は、まだ50歳になる直前のラッツィンガー神父をミュンヘンの大司教に任命し、その司教叙階から数週間後に、枢機卿に任命した。ヨハネ・パウロ2世は、1981年11月、ラッツィンガー枢機卿を教理省の長官とした。それは、ポーランド出身の教皇とバイエルン出身の神学者との強い協力関係の始まりであり、それはヨハネ・パウロ2世の死まで続いた。同教皇は最後までラッツィンガー枢機卿の辞任を認めず、近くに留め続けた。その頃、教理省は多くの問題に直面していた。彼は、特にマルクス主義的な解釈を用い、重大な倫理問題を前に勢力を拡大する解放の神学をくい止めた。最も重要な事業は、カトリック教会の新しいカテキズムの起草であった。その作業は6年を費やし、完成を見たのは、1992年であった。

《主のぶどう畑のいやしい働き手》

 ヨハネ・パウロ2世の帰天後、2005年のコンクラーベの開始からわずか24時間で、ラッツィンガー枢機卿は、教皇に選出された。新教皇は78歳と高齢であるが、普遍的な評価を受け、立場を異にする人々からさえも尊敬されていた。聖ペトロ大聖堂のバルコニーに現れたベネディクト16世は、自身を「主のぶどう畑のいやしい働き手」と呼んだ。自分を目立たせようとするあらゆる態度からおよそかけ離れたベネディクト16世は、特別な「計画」は携えないが、「教会のすべての人々と共に、主の御言葉とその御旨に耳を傾けたい」と語った。

《アウシュビッツとレーゲンスブルグ》

 登位当初、控えめな印象を与えつつも、ベネディクト16世は、様々な訪問行事を積極的に行った。その在位期間は、先任教皇と同様、世界中を旅するものとなった。中でも最も深い印象を残したものは、2006年5月のアウシュビッツ訪問であった。ドイツ人教皇はこのように述べた。「このような場所において、言葉は虚しいものとなりました。残されたのは、ただ茫然とした沈黙だけです。その沈黙は、心の底から神に叫んでいます。『なぜあなたはこのすべてを容認できたのでしょうか』」。2006年は、レーゲンスブルグ事件の年でもあった。かつて教鞭を取ったレーゲンスブルグ大学での講演で、マホメットをめぐる古い引用文を述べたところ、その言葉が意図的に拡大され、イスラム界に抗議を巻き起こしたのであった。以来、ベネディクト16世は、イスラム教徒への配慮のしるしを増していった。多くの難しい司牧訪問に挑戦し、非キリスト教化された社会に急速に拡大する世俗主義や、教会内の異論と対決した。自身の誕生日を、ホワイトハウスでジョージ・W・ブッシュ大統領と共に祝い、数日後の2008年4月20日、グラウンドゼロでアメリカ同時多発テロ事件の犠牲者の遺族らを抱擁し、祈った。

喜びの回勅

 教理省長官であった時代から、しばしば「戦車」とあだ名されながらも、ベネディクト16世は、「キリスト者である喜び」を繰り返し語ってきた。そして、神の愛に捧げた最初の回勅「デウス・カリタス・エスト」を発表した。「キリスト者となる初めに、倫理的決意や偉大な理想があるわけではありません。そこにあるのは、一つの出来事、一人のお方との出会いです」。また、ナザレのイエスについての本を記し、それは3巻に分けて発表された。ベネディクト16世がとった決断の中では、第2バチカン公会議以前のミサ典書の使用を自由化した教令や、聖公会からカトリック教会に入ることを望む人々のための使徒憲章が挙げられる。2009年1月、教皇は、マルセル・ルフェーブル大司教によって、教皇庁の承認を得ずに叙階された4人の司教の破門を解消する決意をした。この中の一人、リチャード・ウィリアムソン司教は、ナチスのガス室の存在の否定者であったため、ユダヤ教界から大きな批判が起こった。教皇は自ら筆を執り、これについてのすべての責任を負う内容の書簡を、世界の全司教に書き送った。

スキャンダルへの回答

 在位の後半数年は、再び噴出した聖職者らによる未成年虐待スキャンダルと、「ヴァティリークス」と呼ばれる、教皇の書斎の机から盗まれた資料が流出し、その内容が本となって出版された事件によって、傷跡を残された。ベネディクト16世は、決然と、強い意志をもって、教会内部の「汚れ」と向き合った。未成年虐待に対する厳格な規則を導入し、教皇庁と世界の司教にメンタリティーの変換を呼びかけた。教皇は、教会にとって最も深刻な迫害は、外部の敵ではなく、教会内の罪から来るのだ、と説いた。ベネディクト16世のもう一つの重要な改革は、財務にも向けられた。ラッツィンガー教皇は、バチカンにマネーロンダリング防止条令を導入した。

《富と権力から解放された教会》

 教会内のスキャンダルや出世主義に対し、高齢の教皇は、繰り返し、回心と悔い改め、謙遜さの必要を呼びかけた。母国ドイツへの最後の旅となった2011年の訪問で、ベネディクト16世は、教会に世俗から離れるよう呼びかけた。「世俗を離れた教会こそ、宣教的証しをはっきりと残していることが、歴史の前例からわかります。物的、政治的な重荷と特権から解放された時、教会は全世界に、より良い、真のキリスト教的なあり方をもって、自分自身を奉献し、真の意味で世界に開かれたものとなれるのです…」。

31 12月 2022, 14:06