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降誕祭2022:教皇「幼子イエスの飼い葉桶が伝える神のメッセージ」

2022年の降誕祭の深夜ミサが、教皇フランシスコによってとり行われた。

 教皇フランシスコは、12月24日、2022年度の降誕祭の深夜ミサをとり行われた。

 この夜、降誕祭の教皇ミサのため、バチカンの聖ペトロ大聖堂は、地元ローマをはじめ、世界各国の信者たちでいっぱいになった。

 ミサの冒頭、救い主の誕生を宣言する「カレンダ」が朗唱された。

 「カレンダ」に続き、助祭が祭壇前のまぐさ桶の覆いを取り、中に寝かされた幼子イエス像を現した。

 幼子イエス像への助祭による献香と、世界の民族衣装を着た子どもたちによる献花が行われる中、広場には大聖堂の鐘楼から祝いの鐘が鳴り響いた。

 ミサの説教で教皇は、人々が忘れているクリスマスの意味を再び見出す場所として、幼子イエスが寝かされた「飼い葉桶」を示された。

 そして、「飼い葉桶」を通して神が伝える、「寄り添い」「貧しさ」「具体性」という3つのメッセージについて説かれた。

 説教中、特に戦争や、貧困、不正義の犠牲となった子どもたちに思いを向けた教皇は、切り捨てられ、見捨てられた場所、「飼い葉桶」に寝かされたこの幼子の中に、すべての子どもたちの姿があると話された。

 教皇フランシスコによる、2022年度降誕祭深夜ミサの説教は次のとおり。

**********

 この夜はわたしたちの生活にまだ何かを訴えているでしょうか。イエスの降誕から2千年が経ち、多くの降誕祭が装飾や贈り物と共に祝われ、わたしたちが記念する神秘が多大な消費主義に包まれた後、ここで一つの危険に行き当たります。クリスマスについてわたしたちは多くのことを知っていても、その意味を忘れているのです。では、どのようにしてクリスマスの意味を再び見出すことができるでしょうか。特に、それをどこに探しに行けばいいのでしょうか。イエスの誕生の福音は、まさにそのために記されています。それはわたしたちの手を取り、神がお望みになる場所へわたしたちを連れ戻すのです。

 イエスの誕生の福音は、わたしたちと同じような状況から始まります。すべての人がある記念すべき重要な出来事に没頭し、あわただしくしています。それは非常に大がかりな住民登録で、多くの準備を必要とするものでした。その意味で、当時の雰囲気は、今日のクリスマスにおいてわたしたちを包む雰囲気とどこか似たものでした。しかし、福音のストーリーは、世俗的な光景から遠ざかりながら、強調したい別の場面をクローズアップしていくのです。

 場面は一見価値のない小さな道具の上に止まります。それは福音の中で3回も言及され、その上にストーリーの登場人物たちを集めるものです。まず、マリアがイエスを「飼い葉桶に寝かせ」(ルカ2,7)ます。次に天使たちが「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」(同2,12)の存在を羊飼いたちに告げます。そこで、羊飼いたちは、「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子」(同2,16)を探し当てるのです。

 「飼い葉桶」、降誕祭の意味を再び取り戻すにはこれを見つめなければなりません。しかし、「飼い葉桶」はなぜこれほどにも重要なのでしょうか。それは、ほかでもない、キリストがこの世という場面に入る時にたずさえているしるしだからです。それはキリストがご自分を現された時のマニフェスト、歴史を再生するために、神がお生まれになった時の手段だからです。では、「飼い葉桶」を通して神がわたしたちに伝えたいことは何でしょうか。それは少なくとも3つあります。「寄り添い」、「貧しさ」、「具体性」です。

 1.「寄り添い」。「飼い葉桶」は、餌を家畜の口の近くに持っていき、それを早く食べさせるために用いるものです。こうして、それは人類の姿を象徴します。それは消費における貪欲さです。なぜなら、家畜小屋の動物たちが餌を食べている間に、世の中の人間たちは権力と富に飢え、まわりの人々、彼らの兄弟たちをもむさぼるからです。なんと多くの戦争があることでしょう。いまだ今日、どれだけの場所で尊厳と自由が侵害されていることでしょうか。人間の貪欲さの犠牲になるのは、いつでも主に不安定で弱い立場の人々です。このクリスマスにも、お金と権力と享楽に飢えた人類は、イエスに「場所がなかった」(参照 同2,7)ように、最も小さき人々、多くの生まれてくる子たち、貧しい人々、忘れられた人々に場所を与えようとしません。わたしは特に戦争や、貧困、不正義の犠牲となった子どもたちを思います。しかし、イエスはまさにそこに、切り捨てられ、見捨てられた「飼い葉桶」の幼子となって来るのです。このベツレヘムの幼子の中に、すべての子どもたちがいます。それは、子どもたちの眼差しで、生活や政治や歴史を見つめるようにとの招きでもあるのです。

 拒絶された、居心地の悪い「飼い葉桶」に、神は落ち着きます。神がそこにおいでになったのは、そこに人類の問題があるからです。それは所有と消費への焦りと貪欲から生まれた無関心です。キリストはそこにお生まれになり、わたしたちはその飼い葉桶の中にキリストを間近に見出すのです。キリストは食べ物をむさぼる場所に、わたしたちの食べ物となるために来られました。神はご自分の子らをむさぼる父ではありません。むしろ、イエスの中におられる御父は、わたしたちをご自分の子とされ、その優しさで養ってくださいます。神はわたしたちの心に触れ、歴史を変える唯一の力は愛であると教えるためにやって来られます。わたしたちから距離をとることのない、力強く、寄り添われる、謙遜な神、天の玉座におられた方が、飼い葉桶に寝かされています。

 兄弟姉妹の皆さん、神は今晩あなたの近くに来られます。それは神にとってあなたが大切だからです。飼い葉桶から、いのちの食べ物となって、イエスはあなたに言われます。「あなたがいろいろな出来事に疲れ切り、もしあなたが罪の意識と自分が不十分であるという思いに蝕まれているならば、もしあなたが正義に飢え渇いているならば、神であるわたしはあなたと共にいる。わたしはあなたの暮らしを知っている。わたしはそれをあの飼い葉桶の中で体験した。あなたの惨めさと身の上に起きたことを知っている。あなたのそばにいつもいて、これからもいることを伝えるために、わたしは生まれた」。

 幼子となられた神の最初のメッセージである、ご降誕の飼い葉桶は、神がわたしたちと共におられ、わたしたちを愛し、わたしたちを探されるということを伝えています。元気を出しましょう。恐れや、諦め、失望に負けてはなりません。神は飼い葉桶の中に、まさにあなたがどん底と思っていた場所に、あなたを再び立ち上がらせるためにお生まれになりました。イエスが救いを望まれない、救うことができない、いかなる悪も罪もありません。降誕祭とは、神が近くにいるという意味です。信頼を取り戻しましょう。

 2.ベツレヘムの飼い葉桶は、わたしたちへの「寄り添い」と共に、「貧しさ」を伝えています。事実、飼い葉桶のまわりには、ほとんど何もありません。茂みと何匹かの動物、それくらいです。人々は宿屋で暖をとり、寒い家畜小屋を宿とすることはありませんでした。それでも、イエスはそこにお生まれになりました。飼い葉桶は、まわりには何もなくても、そこにイエスを愛する人々がいたことを思い出させます。それはマリアとヨセフ 、そして羊飼いたちです。皆が貧しい人たちであり、富と大きな可能性を持たなくとも、愛情と驚きにあふれていました。貧しい飼い葉桶は真のいのちの豊かさを表していました。それはお金や権力ではなく、絆であり、人々でした。

 その中で最も中心的な人物、一番の豊かさは、イエスその人でした。しかし、わたしたちはイエスのそばにいたいと思いますか? イエスに近づき、その貧しさを愛せますか? それとも、自分の関心の中に楽をしてとどまっている方がよいですか? 特に、イエスがいる場所、すなわち、わたしたちの世界の貧しい飼い葉桶を訪ねたいと思いますか? イエスがおられるのはそこなのです。そして、わたしたちは貧しいイエスを礼拝し、貧しい人々の中におられるイエスに奉仕する教会であるようにと召されているのです。それは、ある聖なる司教が言ったとおりです。「教会は不正義の構造を変えるための努力を支え祝福し、ただ一つの条件を提示する。それは、社会、経済、政治の変容が真に貧しい人々のための恩恵となることである」(O.A.ロメロ、新年の司牧メッセージ、1980.1.1)。確かに、ベツレヘムの洞窟の簡素な美しさを抱擁するために、世俗的なぬくもりを捨てることは容易ではないでしょう。しかし、貧しい人々を除いては真のクリスマスではありえないことを思い出しましょう。貧しい人々を考えずに降誕祭を祝うこともできます。しかしそれはイエスの降誕祭ではありません。兄弟姉妹の皆さん、降誕において神は貧しい存在です。慈愛の心がよみがえりますように。

 3.最後のところにやってきました。飼い葉桶はわたしたちに「具体性」を伝えます。実際、飼い葉桶に寝かされた幼子の姿は、わたしたちを驚かせる、ある意味生々しいまでの光景です。それは神がまさに肉となられたことを思い出させます。こうなると、神に対する論理も思考も敬虔な感情も十分ではありません。貧しく生まれ、貧しく生き、貧しく亡くなられるであろうイエスは、ご自身の貧しさについて多くを語ることはありませんでしたが、わたしたちのためにその貧しさを徹底的に貫かれました。飼い葉桶から十字架に至るまで、イエスのわたしたちへの愛は明白で具体的でした。その誕生から死に至るまで、大工の息子は木の荒い手触り、人間の生きることの厳しさを包容しました。わたしたちを口先だけで愛されたのではありません。その愛は真摯なものでした。

 イエスは外見だけに満足しませんでした。イエスが人となられたのは、適当な意図のためではありません。飼い葉桶の中に生まれたイエスは、口先や見せかけではない、礼拝と慈愛の業からなる具体的な信仰を求めました。飼い葉桶に裸で生まれ、やがて裸で十字架につけられるイエスは、わたしたちに真理を求めます。物事の真の姿を見つめ、言い訳や、正当化、偽善を、飼い葉桶の足もとに捨てるようにと命じます。マリアによって布に優しくくるまれたイエスは、わたしたちを愛で包むことを望まれます。神は見せかけではなく、具体性を求められます。何か良いことを行わずして、このクリスマスを終わらせてはいけません。降誕祭がイエスのお祝い、イエスの誕生日であるからには、イエスに喜ばれる贈り物をしようではありませんか。ご降誕において、神は具体的です。神の名のもと、希望を失った人に、少しでもそれを取り戻させることができますように。

 飼い葉桶の中に寝かされたイエスよ、わたしたちはあなたを見つめます。あなたはこれほどにも「近く」に、いつもわたしたちに寄り添ってくださいます。主よ、感謝します。わたしたちは貧しいあなたを見つめます。あなたの貧しさは、真の豊かさとは、物の中ではなく、人々の中に、特に貧しい人々の中にあることをわたしたちに教えます。わたしたちが貧しい人々の中にいるあなたの存在に気づかず、あなたに奉仕できなかったことがあったならば、どうかお赦しください。わたしたちはあなたの具体性を見つめます。なぜならあなたのわたしたちへの愛が具体的だからです。わたしたちの信仰に肉といのちをもたらすことができるよう、助けてください。アーメン。

 

 

24 12月 2022, 22:08
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