聖ステファノ祝日:教皇「神は殉教者の犠牲を通して人の心を変える」
カトリック教会の典礼暦は、主の降誕の祭日に続く、12月26日(火)、教会の最初の殉教者、聖ステファノを記念した。
教皇フランシスコは、この祝日にあたり、バチカンで正午の祈りの集いを持たれた。
祈りの前の説教で、教皇は聖ステファノの信仰の証しを「使徒言行録」を通して振り返りながら、彼の殉教がもたらしたものについて考えた。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
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今日、降誕祭の翌日、わたしたちは最初の殉教者、聖ステファノの祝日を記念する。
使徒言行録(参照 6-7章)は、ステファノ殉教について記している。彼は評判の良い人で、食事の世話や、日々の分配を行なっていたことがわかる。まさにこの寛大な誠実さゆえに、彼は自分にとって最も大切なもの、イエスにおける信仰を証しせずにはいられなかった。しかし、これが彼の敵の激しい怒りを招き、彼らは冷酷にもステファノを石打ちで殺害した。これらの出来事は、キリスト教徒に対する熱心な迫害者であった一人の若者、サウロの前で起こった。サウロはこの石打ち執行のいわば「保証人」としてそこにいた(参照 7,58)。
サウロとステファノ、迫害者と迫害を受ける者が対峙する、この場面についてしばし考えよう。二人の間には、貫通しがたい壁があるように思われる。その壁は、若きファリサイ派の原理主義、死刑宣告を受けた者にぶつけられた石のように硬いものであった。しかし、その見かけの向こうには、彼らを結ぶ、より強い何かがあった。事実、ステファノの証しを通して、主はサウロの知らぬ間に、その心の中に、彼を「偉大な使徒パウロ」へと変える回心をすでに準備しておられた。
ステファノの、奉仕、祈り、彼が宣言した信仰、そして特に死の間際に示したゆるし、これらは決して無駄ではなかった。彼の犠牲は一粒の種を蒔くことになった。その種は、石とは反対の方向に飛び、彼の迫害者の胸に密かに植え付けられたのである。
それから2000年が経った今日も、残念ながら、わたしたちは続く迫害を目にしている。今も、イエスを証しするために苦しみ、死んでいく人々がいる。これらの兄弟姉妹たちもまた、敗者のように見えるかもしれないが、実はそうではないことが今日わかるであろう。今も昔も、彼らの犠牲の種、死んだかと思われたその種は実を結ぶ。神は、人の心を変え、救うために(参照 使徒言行録18,9-10)、殉教者らを通して奇跡を行い続けるからである。
ここで自問しよう。世界の様々な場所で、今日も未だ信仰のために苦しみ、死んでいく人々のために、関心を持ち、祈っているだろうか。自分も言動一致と、柔和さと、信頼をもって、福音を証しようとしているだろうか。善の種は、すぐにその結果を見ることができなくても、必ず実を結ぶと信じているだろうか。
殉教者の元后マリアよ、わたしたちがイエスを証しできるようにお助けください。