キリスト教一致祈祷週間:教皇「だれが隣人になったかを問うイエスの愛」

「キリスト教一致祈祷週間」最終日、ローマの「城壁外の聖パウロ大聖堂」で、エキュメニカルな夕べの祈りがとり行われた。

 1月18日から行われていた「キリスト教一致祈祷週間」は、25日「聖パウロの回心」の祝日をもって、最終日を迎えた。

 同日午後、ローマの「城壁外の聖パウロ大聖堂(サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ)」で、エキュメニカルな夕べの祈りがとり行われた。

 この祈りの集いには、教皇フランシスコはじめ、教皇庁キリスト教一致推進省長官クルト・コッホ枢機卿ら、カトリック関係者、また、英国国教会のジャスティン・ウェルビー・カンタベリー大主教、エキュメニカル総主教庁を代表しポリュカルポス府主教、そしてローマにおける諸キリスト教教会の代表者らが参加した。

 教皇は、集いの中で朗読された「善いサマリア人」のたとえ(ルカ10,25-37 )を取り上げながら、説教を行われた。

 イエスを試そうとするある律法の専門家が「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(ルカ10,25 )と質問した。教皇はここに、永遠の命を神の賜物ではなく、当然得るべき所有物のように話すこの律法家の態度を指摘された。

イエスが律法の中にその答えを見つけるよう招くと、律法家は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽く して、あなたの神である主を愛しなさい。また隣人を自分のように愛しなさい」とある部分を引用した(同10,27)。

 自分を正当化したい律法家は、イエスにさらにこう尋ねた。「では、わたしの隣人とはだれですか」(同10,29)。教皇はここでも、人々を愛するべき対象と無視すべき対象に分裂させるこの問いの罠を示された。

 イエスはこの問いに対し、机上の論理の繰り返しを避け、「善いサマリア人」という具体的なたとえをもって答えられた。追いはぎにあい路上に倒れていた瀕死の人に自ら近づき、心を込めて介抱したのは、自分たちの宗教的な慣習の遵守を苦しむ人の救助に優先させた祭司とレビ人ではなく、彼らからは異端と思われていたサマリア人であった。

 この「善いサマリア人」のたとえを語ったイエスが投げかけた最終的な問いは、「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」というものであった。

 教皇は、「隣人とはだれか」ではなく、「だれが隣人になったか」を問いかけるイエスの言葉に注目。

 「わたしの隣人とはだれか」ではなく、「わたしは隣人になっているか」と問うこの愛、イエスが宣べ伝え、人々に自ら仕えることで実践されたこの愛こそが、離れ離れになったキリスト者たちを近づけるだろう、と教皇は強調された。

 そして、このイエスの愛こそが、互いに距離を置いた過去に戻らせることなく、また自分の宗教的システムを守ることを兄弟愛に優先させることなく、わたしたちを一致させることができるだろう、と説かれた。

 

25 1月 2024, 20:23