聖マリア・アントニア、アルゼンチン生まれの初の女性の聖人に
アルゼンチン出身の福者マリア・アントニア・デ・サン・ホセ・デ・パス・イ・フィゲロア(1730-1799)の列聖式が、2月11日、教皇フランシスコによってとり行われた。
バチカンの聖ペトロ大聖堂で捧げられた列聖ミサには、アルゼンチンのハビエル・ミレイ大統領をはじめ、同国からの大巡礼団など、およそ5千人が参加した。
ミサの前半行われた列聖の儀式では、教皇庁列聖省長官マルチェロ・セメラーロ枢機卿が、列聖の申請代理人(ポストゥラトーレ)を伴いつつ、教皇に福者マリア・アントニアの列聖を願い出た。
これに続き、セメラーロ枢機卿により、同福者の生涯と人となりが紹介された。
マリア・アントニア・デ・サン・ホセ・デ・パス・イ・フィゲロアは、1730年、アルゼンチン北部トゥクマン州に生まれた。15歳の時、イエズス会の司祭らが霊的指導を行っていた若い女性たちのグループに入った。これらの信仰熱心な女性たちは特定の修道会に属することなく、個人的に誓願を立て、当時のイエズス会員の修道服に倣った、女性修道者の服を身につけていた。マリア・アントニアは、特に慈愛の業や貧しい人々への奉仕に熱心であった。
1773年、教皇クレメンス14世は、回勅を通してイエズス会を解散させた(※その後、イエズス会は、1814年、教皇ピオ7世によって復興した)。これに先立つ1767年に、アルゼンチンのイエズス会はすでに解散を命じられた。イエズス会の宣教活動は中止され、神学校、黙想の家は閉じられた。しかし、この時、マリア・アントニアは、聖イグナチオ・デ・ロヨラの「霊操」に基づく黙想を広め続けることを、使徒職として感じていた。
マリア・アントニアは、自身の聴罪司祭、司教、行政官の許可を得て、1768年から、サン・ティアゴ・デル・エステロやトゥクマン地方の様々な場所で、霊操の講座を開いた。そのために、場所を探したり、司祭や修道者に黙想文の起草などの協力を仰いだり、あらゆる努力を惜しまなかった。
コルドバで神の啓示を受け、1779年、ブエノスアイレスに向かった。最初は司教や行政関係者の賛同を受けられなかったものの、マリア・アントニアの善意はやがて人々に彼女の清廉と誠実を確信させた。こうしてマリア・アントニアがブエノスアイレスで始めた黙想には、要人や聖職者を含む、社会のあらゆる立場の人々が参加するようになった。
十字架のイエスを深く愛したマリア・アントニアは、行うすべてを神のより大いなる栄光のために捧げながら、人々の魂の救済に尽くした。1790年から1792年の間に、ウルグアイに赴き、同地でも黙想の普及を通して、人々をキリストに近づけた。
マリア・アントニアは、1799年、ブエノスアイレスで帰天した。
このように、その生涯が紹介された後、教皇は、マリア・アントニア・デ・サン・ホセ・デ・パス・イ・フィゲロアを聖人として宣言された。
これにより、聖マリア・アントニアは、アルゼンチン出身で初の女性の聖人となった。
ミサ中の説教で、教皇は、「ママ・アントゥラ」と呼び親しまれた聖マリア・アントニアが、神を人々にもたらすために、荒れ野や危ない道のりを何百kmも徒歩で旅したことを思い起こし、同聖人を使徒的熱心と勇気の模範として示された。
そして、教皇は、聖マリア・アントニアの取り次ぎと神の祝福をすべての人の上に祈られた。