「謙遜はあらゆる高慢の治療薬」教皇一般謁見
教皇フランシスコは、3月6日、バチカンの聖ペトロ広場で、水曜日恒例の一般謁見を行われた。
この日の謁見で、教皇は「悪徳と徳」をめぐるカテケーシスとして、「高慢」について考察された。
冒頭の挨拶で、教皇はまだ風邪をひいているために、カテケーシスは協力者の代読にまかせたい、と述べられた。そして、カテケーシスのために用意された講話は、国務省のピエルルイジ・ジロリ師によって代読された。
この日のカテケーシスの要旨は次のとおり。
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「悪徳と徳」をめぐるカテケーシスで、今日は「高慢」について考えたい。古代ギリシャ人は「高慢」を「過剰な輝き」とでも訳せる言葉で定義していた。実際、高慢とは、自画自賛、うぬぼれ、虚栄である。この定義はイエスが人間の心から出る悪い思いを説明するために列挙した一連の悪徳の中にも表れている(参照 マルコ7,22)。高慢とは、自分を実際よりずっと優れていると考えている人、他者よりも偉大だと思われたくてたまらない人、いつも自分の功績を認められたい人、他者を自分より劣っていると思い見下す人のことである。
こうした特徴から、「高慢」の悪徳は、前回取り扱った「虚栄」とよく似ているように見える。しかし、虚栄が人間の自我の病だとしても、高慢がもたらしうる破壊と比べるならば、それはまだ子どもっぽい病である。人間の狂気を分析しつつ、古代の修道者たちは一連の悪の中に、ある種の秩序を見出していた。それは、たとえば暴食のような粗野な罪から始まり、最も心配される恐ろしい悪徳にたどりつく。すべての悪徳の中で高慢は、堂々たる女王である。ダンテは『神曲』の中で、高慢を煉獄の最初の額縁の中にはめ込んでいる。高慢に陥る者は、神から離れた者である。この悪の矯正には、キリスト者が立ち向かうべき他のあらゆる闘いよりも、時間と努力を要する。
実は、この悪の背後には深く根付いた罪が隠されている。それは、神のようでありたいとの途方もないうぬぼれである。『創世記』に語られるわれわれの祖先の罪は、つまるところ、高慢の罪である。アダムとエバに誘惑者は言った。「それを食べると目が開け、神のように[…]なる」(創世記3,5)。霊性の作家たちは、日常生活の中で高慢に陥る時のことを注意深く記し、それがいかに人間関係を台無しにし、兄弟愛の感情を毒するかを示している。
高慢の悪徳の症状は、まず、へりくだるということがない。簡単に人を見下す。イエスの裁いてはならないという教えを忘れている。建設的な小さな批判、あるいはまったく無害な所見を述べただけで、烈火のごとく怒る。何事にも憤慨し、他者との関係を恨みをもって断ち切る。
高慢に病んだ人とはどうすることもできない。話しかけることも、正すこともできない。実際のところ、彼は自分自身のことをわかっていないからである。こうした人に対してはただ忍耐を持つしかない。なぜなら彼の建物はいつか崩れるからである。イタリアのことわざにこうある。「高慢は馬で行き、歩いて帰る」。
福音書の中でイエスは多くな高慢な人たちと関わられた。たとえば、ペトロは自分の忠誠を誇示して、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(参照 マタイ26,33)と言った。しかし、彼はすぐに他の者たちと同じ体験をすることになる。ペトロも死を前にして恐れたのである。ペトロはもう顔を上げることもできず、苦い涙を流したが、イエスにいやされ、ついには教会の重みを支えることができる者になる。
救いは謙遜を通して来る。謙遜はあらゆる高慢な態度の治療薬である。「マニフィカト」の中で、マリアは、思い上がる者の病んだ心の思いを打ち散らす神を高らかに歌っている。
この四旬節をわたしたちの高慢と闘う機会としよう。