聖金曜日:キリストの受難と死を思い、十字架を見つめる

「聖金曜日」の夕刻、教皇フランシスコはバチカンで「主の受難の儀式」をとり行われた。

 3月29日、カトリック教会の典礼は「聖金曜日」を迎え、イエス・キリストの十字架上の死を記念した。

 この日の午後、教皇フランシスコは、バチカンの聖ペトロ大聖堂で、主の受難と死を記念する儀式をとり行われた。

 「主の受難の儀式」は、ことばの典礼、十字架の崇敬、聖体拝領から成っている。

 儀式の始めにあたり、教皇は祭壇前で長い沈黙の祈りを捧げられた。

 ことばの典礼では、「イザヤ書」(52,13-53,12)、「ヘブライ人への手紙」(4,14-16; 5,7-9)が信徒によってイタリア語とスペイン語で朗読され、「ヨハネ福音書」のイエスの受難と死(18,1-19,42)が3人の助祭によってラテン語で厳かに朗唱された。

 この後、教皇付説教師ラニエーレ・カンタラメッサ枢機卿の説教が行われた。

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 説教で、カンタラメッサ枢機卿は、「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということが分かるだろう」(参照 ヨハネ8,28)という、イエスがご自分の反対者らに言われた言葉に注目した。

 『わたしはある』という表現は、「出エジプト記」(3,14)などで、神がご自身を『わたしはある』と呼びながら、その神性を現されたことを思い出させるもの、と同枢機卿は指摘。

 しかし、その一方で、人の子を「上げたとき」すなわち「十字架につけたとき」その神性が現れるとは、わたしたちの神に対する概念をひっくり返すものである、と述べた。

 イエスは人間が神に対して抱く考えをより完成させるためでなく、その考えをくつがえし、神の真の御顔を表すために来られた。それは、このことをいち早く理解した聖パウロが「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」(1コリント1,21-24)と記したとおりである、と同枢機卿は話した。

 「神は万能であられる。ならばその万能とはどういうものなのだろうか」とカンタラメッサ枢機卿は問いつつ、「御父はその真の御顔を、弟子たちの前にひざまずいて彼らの足を洗う御子、十字架上の完全な無力さにも関わらず愛し赦し続ける御子の中に表された」と強調。

 「神の真の万能さとは、カルワリオでの完全な無力さである。力とは、それを表すのは容易だが、それを消すためには多くを要する。神とはご自分を隠し、ご自分を無にする(参照 フィリピ2,7)無限の力である。神は、わたしたちの力への欲望を前に、意志的な無力を示された」と説いた。

 同枢機卿は、「いつも力を誇示したいわたしたち、特にこの世の権力者たちにとって、これは何という教えだろうか。中には奉仕することなど思いもつかず、ただ権力のための権力だけを考えている人たちがいる。それはイエスが『民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている』(参照 マタイ20,25、ルカ22,25)と指摘した者たちである」と語った。

 それに対して、イエスは、「わたしのもとに来なさい。なぜなら『わたしはある』、わたしは神である。わたしはあなたがたの万能に対する考えを捨てたが、わたしの万能、愛の万能を持っている」と十字架の上からわたしたちに呼びかけている、と同枢機卿は話した。

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 説教後、聖金曜日の盛式共同祈願が唱えられた。

 「十字架の崇敬」では、助祭が十字架を手に大聖堂後方から入場し、祭壇に向かって歩を進めながら、三度立ち止まり、十字架を高く顕示。「世の救い主、キリストがつけられた木の十字架を見よ」という招きに、会衆は十字架を見つめ、ひざまずいて崇敬を表した。

 十字架を迎えた教皇は十字架上のイエス像に接吻され、その後、枢機卿や司教、信徒代表による崇敬が続いた。

 最後に、教皇は再び十字架を受け取り会衆に示された。

 聖体拝領式を経て、人々は沈黙のうちに解散した。

 

29 3月 2024, 20:18