「主はわたしたちを友として愛される」教皇、日曜正午の集い
教皇フランシスコは、5月5日(日)、レジーナ・チェリの祈り(アレルヤの祈り)をバチカンの広場の巡礼者と共に唱えられた。
復活節第六主日、教皇は集いの説教で、この日の福音朗読箇所(ヨハネ福音書15,9-17)から、「もはや、わたしはあなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない…わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(参照 同15,15)というイエスの言葉について考えられた。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
**********
今日の福音は、「もはや、わたしはあなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない…わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(参照 ヨハネ15,15)というイエスが使徒たちに言われた言葉を伝えている。これはどういう意味だろうか。
聖書の中で、神の「僕(しもべ)」とは、たとえばモーセ(参照 出エジプト記14,31)、ダビデ王(参照 サムエル記下7,8)、預言者エリヤ(参照 列王記上18,36)、また、おとめマリア(参照 ルカ1,38)のように、神が重要な使命を託された特別な人々である。彼らは、神がご自分の宝をその手に預けられた人々である(参照 マタイ25,21)。
しかし、わたしたちを「僕(しもべ)」と呼ぶだけでは、イエスにとっては十分ではなかった。財産や計画を超えたもっと大きな何かが必要だった。それは友情である。
わたしたちは子どもの頃から、この友情の体験がいかに素晴らしいかを学ぶ。『箴言』で神の御言葉はこう言う。「香油も香りも心を楽しませる。友人の優しさは自分の考えにまさる」(箴言27,9)。わたしたちの友人たちをしばし思い、神に感謝を捧げよう。
友情とは、計算ずくの結果でも、強制でもない。それは他者の中に自分の何かを認める時に、自然と生まれる。それが本物ならば、裏切りを前にしても友情は失せることがない。「どのようなときにも、友を愛する」(参照 箴言17,17)と『箴言』が強調するように、イエスはユダが接吻と共に裏切ったとき、「友よ、しようとしていることをするがよい」(マタイ26,50)と言われた。
真の友は、たとえあなたが誤ったときでも、あなたを見捨てることがない。あなたを正し、叱ることはあっても、あなたを赦し、あなたを見捨てない。
今日、福音の中で、イエスは、わたしたちがイエスにとってまさに「友」であると言われる。その人の功績や期待を超え、手を差し伸べ、愛と恵みと御言葉を与え、「御父から聞いたことをすべて」(参照 ヨハネ15,15)分かち合う、愛する人だと言うのである。
イエスは、わたしたちを愛するがゆえに、無防備に、言い訳なしに、ご自身をわたしたちの手に委ねられるほどに、わたしたちのために「弱く」なられた。主はわたしたちを友として愛され、わたしたちに善を望まれ、わたしたちにご自身の善に与るように招かれる。
ここで自問しよう。主はわたしのためにどのような御顔を持っておられるだろうか。それは友の顔だろうか、それとも他人の顔だろうか。主から親しい人として愛されていると感じているだろうか。他者、特に過ちを犯した人や、赦しが必要な人に対し、わたしはどのようなイエスの顔を証ししているだろうか。
わたしたちが御子との友情のうちに成長し、その友情をまわりに広げることができるよう、聖母が助けてくださいますように。