教皇フランシスコ 2025年5月15日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場 教皇フランシスコ 2025年5月15日の一般謁見 バチカン・聖ペトロ広場  (VATICAN MEDIA Divisione Foto)

「神から来る、聖霊の業である愛」教皇一般謁見

教皇フランシスコは、5月15日(水)、バチカンで一般謁見を行われた。

 教皇フランシスコは、5月15日(水)、バチカンの聖ペトロ広場で、水曜恒例の一般謁見を行われた。

 この日、教皇は「悪徳と徳」をめぐるカテケーシスで、「対神徳」中の「愛」の徳について考察された。

 教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。

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  今日は、三つ目の「対神徳」、「愛」の徳について考察しよう。「愛」はわたしたちがたどった「徳」をめぐる一連のカテケーシスの頂点である。愛について考える時、心はすぐに広がり、聖パウロが『コリントの信徒への手紙』の「愛の賛歌」の中で、三つの対神徳に触れながら高らかに宣言した次の言葉が思い浮かぶ。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(1コリント13,13)。

 聖パウロはこの言葉を兄弟愛において完ぺきとはとても言えないコリントのキリスト教信たちに向けている。コリントの信者たちは、むしろ、けんか早く、内部分裂し、自分が正しいと譲らず、他者を見下して耳を傾けない者がいた。

 こういう人たちに対し、パウロは「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(参照 1コリント8,1)ことを思い出させている。使徒パウロは、キリスト教共同体にとって最大の一致の時と言える「主の晩餐」においても分裂があり、貧しい人を差し置いて、それを飲み食いの機会に利用している者がいると指摘している(参照 1コリント11,18-22)。こうした事態を前に、パウロは、「それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです」(参照 1コリント11,20)と、はっきりとした見解を示している。

 もしかしたら、コリントの共同体では、誰も罪を犯したとは思っておらず、パウロのこれほどにも厳しい言葉は理解しがたいものに響いたかもしれない。たぶん、皆が自分を良い人だと確信し、「愛」について尋ねられたとしても、もちろん愛は、友情や家族と同様に大事だと答えただろう。今日でも、愛は多くの「インフルエンサー」の口に上り、たくさんの歌の中で繰り返されている。

 「では、別の愛については?」と、パウロがコリントの信者たちに尋ねているかのようである。それは、上る愛ではなく、降りてくる愛、得る愛ではなく、与える愛、目立つ愛ではなく、隠れた愛のことである。パウロは、混乱したコリントの人たち(今日のわたしたちもそうであるが)を心配していた。対神徳は神からのみ来るものであるが、そこには神の形跡が一切なかった。口先では皆が良い人で、家族や友人を愛していると言っても、実際には神の愛はそこにはほとんど感じられない。

 初期のキリスト教徒たちは、愛を定義するための異なる言葉を持っていた。そして、最後に通常「慈愛」と訳される「アガペ」という言葉が登場した。実のところ、キリスト教信者にとって、世の中のすべての愛が可能である。恋愛もすれば、友情のうちに思いやりを感じ、祖国への愛や、全人類への普遍の愛も経験する。しかし、神から来て、神に向けられる最も大きな愛がある。それは神を愛し、神の友人となることを可能とし、神を愛するように隣人をも愛し、神との友情を分かち合う力を与える愛である。この愛は、キリストによって、わたしたちを人間の力では到達できないところまで押し出す。この愛は、貧しい人への、愛しがたいものへの、わたしたちを愛さない人や感謝のない人への愛である。これは愛せないもの、敵にさえも向けられた愛である。この対神徳は、神から来るもの、わたしたちの中におられる聖霊の業である。

 イエスは山上の垂訓で次のように説かれた。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている」(ルカ6,32-33)。そして、イエスはこう結ぶ。「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」(同6,35)。

 これらの言葉の中に、愛は対神徳として姿を現し、「慈愛(カリタス)」と名乗る。わたしたちはそれが難しい愛、いや、神の中に生きない限り不可能な愛だとすぐに気づく。われわれ人間の本性は、善いもの、美しいものをおのずと愛する。理想や、偉大な愛のために、わたしたちは寛大で英雄的な行為をも遂行できる。しかし、神の愛はこの法則の上を行く。キリスト教的愛は、愛しがたいものを抱擁し、赦し、悪く言う相手を祝福する。

 それはあまりに大胆な愛で、ほとんど不可能に思われる。それにもかかわらず、わたしたちに唯一残されたものである。それは、神の国に入るために通る「狭い門」である。人生の終りに、わたしたちは一般的な愛についてではなく、まさにこの「愛=カリタス」について裁かれる。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25,40)。

15 5月 2024, 15:29