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教皇フランシスコ 2024年6月2日のお告げの祈り 教皇フランシスコ 2024年6月2日のお告げの祈り  (ANSA)

キリストの聖体:教皇「イエスと一致し、自らを愛の贈り物に」

多くの国の教会で「キリストの聖体」を祝った、6月2日(日)、教皇フランシスコはお告げの祈りを巡礼者らと共に唱えられた。

 教皇フランシスコは、6月2日(日)、バチカンで正午の祈りの集いを持たれた。

 多くの国のカトリック教会で「キリストの聖体」を祝ったこの日、教皇はマルコ福音書中の主の晩餐の場面(参照 マルコ14,12-16、22-26)を取り上げ、説教を行われた。 

 教皇の説教の要旨は次のとおり。

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 イタリアや他の国々で、今日は「キリストの聖体」の祭日を祝う。今日の典礼の福音は、イエスの最後の晩餐(参照 マルコ14,12-16、22-26)について語っている。ここでイエスは自らを差し出す行為をなされた。事実、弟子たちに与えられた裂かれたパンと、渡された杯は、イエスご自身である。イエスはご自身を全人類に与え、世のいのちのためにご自分を捧げられた。

 パンを裂くイエスの行為において、福音書は「弟子たちに与えて」(同上14,22)という言葉で、ある重要な側面を強調している。それは、聖体とは何よりも贈り物である、ということである。イエスはパンを取るが、それはご自分で食べるためではなく、裂いて弟子たちに与えるためである。このようにして、イエスはご自分のアイデンティティーと使命を啓示された。イエスはそのいのちをご自分のために取っておかれず、わたしたちに与えられた。ご自分が神であることを譲りがたい宝のように考えずに、わたしたちの人性を分かち合い、わたしたちを永遠のいのちに入らせるために、ご自身の栄光を脱ぎ捨てられた(参照フィリピ2,1-11)。イエスはご自身のいのちのすべてを贈り物とされた。

 こうしてわたしたちは、ミサを祝い、聖体に養われることは、生活から切り離された行為でも、単なる個人的慰めの時でもないことを理解するだろう。イエスはパンを取り、「それを裂き、弟子たちに与えられた」。それゆえに、イエスとの一致はわたしたちにも、他者のために裂かれたパンとなり、自分の存在、自分が持っているものを分かち合うことを可能にする。大聖レオ(教皇聖レオーネ1世)は言っている。「キリストの御からだと御血に与ることは、わたしたちをそのいただくものと同じものにしようとする」。

 わたしたちがなるようにと召されているもの、それはわたしたちがいただく聖体と似たものとなること、すなわち「聖体的」な存在となることである。それは、所有や消費の論理のもとに自分のためだけに生きる者ではなく(参照 ローマ14,7)、自分の人生を他者への贈り物とすることができる者になることである。

 このように、わたしたちは聖体のおかげで、新しい世界の構築者となる。わたしたちがエゴイズムを乗り越える時、愛に自らを開く時、兄弟愛の絆を育てる時、兄弟たちの苦しみに寄り添う時、助けを必要とする人たちとパンや持っているものを分け合う時、自分たちの才能を皆のために役立てようとする時、わたしたちはイエスのように自分のいのちのパンを裂くことになる。

 では、ここで自問しよう。わたしは自らの人生を自分のためだけにとっておくのか、それともイエスのように与えるのか。わたしは他者のために自分を惜しまず与えているだろうか、それとも狭い自分の中に閉じこもっているだろうか。日々の状況の中で、わたしは分かち合っているだろうか、それとも自分の利益を追求しているだろうか。

 天から降りてきたパン、イエスを受け入れ、イエスと共にご自身を完全に捧げられたおとめマリアよ、わたしたちが聖体=イエスと一致し、自らを愛の贈り物とすることができるようお助けください。

02 6月 2024, 16:09