「いやすために触れ、新たにいのちを与える神」教皇、日曜正午の集い
教皇フランシスコは、6月30日(日)、バチカンで正午の祈りを巡礼者と共に唱えられた。
年間第13主日、教皇は集いの説教で、この日の福音朗読、マルコ福音書中の、ヤイロの娘と、イエスの服に触れる女の、二つのいやしが語れられる箇所(マルコ5,21-43)を取り上げられた。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
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今日の典礼の福音は、互いに結びついているかに見える二つの奇跡について語っている。イエスは会堂長の一人であるヤイロの家に向かっていた。ヤイロの幼い娘が重い病で死にかけていたからである。その途中、長年出血の止まらない女がイエスの服に触れたため、イエスは立ち止まり、その女をいやされた。すると、そこへヤイロの娘が亡くなったという知らせが届いた。しかし、イエスは歩み続け、ヤイロの家に着いた。イエスは子供のいるところへ行き、子供の手を取って、起き上がらせ、いのちを取り戻させた(マルコ5,21-43)。
この二つのいやしは、一つのエピソードの中で語られている。どちらのいやしも、触れることによって起きている。実際、女はイエスの服に触れており、イエスは子供の手を取っている。なぜ、触れることが重要なのだろうか。なぜなら、出血が止まらない女も、すでに亡くなっている子どもも、不浄であると考えられていたために、触れることは考えられなかったからである。それに対し、イエスは女がご自分の服に触れるがままにし、また、ヤイロの亡くなった娘に触れることを恐れなかった。
このからだのいやし以前に、イエスは、神は清いものとそうでないものを分けられる、という誤った宗教的概念を危機に陥れた。神はこうした区別をされることはない。なぜならば、わたしたちは皆、神の子であり、不浄さは食べ物や、病気、死から来るのではなく、汚れた心から来るからである。
イエスがわたしたちに示してくださるこの姿を心に留めよう。神はあなたの手を取って、起き上がらせる方、あなたの苦しみがご自分に触れるのをゆるしてくださる方、そして、あなたをいやすために触れ、新たにいのちを与える方である。神はすべての人を愛するため、誰も差別されることはない。
では、ここで自問しよう。わたしたちは神がこういう方であると信じているだろうか。御言葉や愛を通して、イエスに触れていただいているだろうか。兄弟たちが立ち上がれるように手を差し出しながら、その兄弟たちとの関係に入っていけるだろうか。それとも兄弟たちと距離を置いて、自分たちの趣味や好みに従って、人を遠ざけたり、レッテルを貼ってはいないだろうか。
神の御心を見つめよう。教会と社会が誰も排除することがないように、誰も不浄として扱われることがないように。一人ひとりが固有のストーリーと共に、レッテルや先入観なしに、受け入れられ、愛されるように。
優しき母である聖なるおとめに、わたしたちのため、全世界のために取り次ぎを祈ろう。