「平和と兄弟愛に基づく新しい文明を」教皇、トリエステでミサ
トリエステを開催地に7月3日から行われていた、イタリアのカトリック教会の「第50回社会週間」(テーマ:民主主義の中心へ向かって。歴史と未来の間に参与する)は、7日最終日を迎えた。
教皇フランシスコは、同日、この「社会週間」の閉会行事のためにトリエステを訪れ、市内の会議場でスピーチを行われた。
その後、教皇は、同市の象徴である、アドリア海に面した「イタリア統一広場」でミサをとり行われた。
このミサには、「社会週間」の会議参加者はもとより、地元トリエステ教区とヴェネト州、さらにオーストリア、クロアチア、スロベニアなど近隣国から、およそ8500人の信者が詰めかけた。
また、98人の司教、260人の司祭が参加したほか、セルビア正教会、ギリシャ正教会、ルーテル教会の代表の姿も見られた。
教皇はミサの説教で、この日の福音朗読箇所、マルコ福音書中の、ナザレに帰られたイエスが故郷の人々から受け入れられなかったエピソード(マルコ6,1-6)を取り上げられた。
故郷ナザレで、ご自身を小さい頃から知っている人たちの間にいながら、イエスは人々から認められないどころか、拒絶までされた。人々がイエスにつまずいたのはなぜだろうかと問われた教皇は、それはまさにイエスが人間であり、大工ヨセフの息子だったために、万能の神が一人のか弱い人間として姿を現されるわけがないと考えられたからである、と話された。
人となられた神、人類に向かって身をかがめ、その世話をし、わたしたちの傷に心を動かされ、疲れを分かち合い、パンを割いてくださる神、それは人々にとってつまずきの石となった。自分の味方をしてくれ、何でも満足させてくれる力ある神は魅力的であるが、愛のために十字架上で死を遂げる神、あらゆるエゴイズムに打ち勝ち、世の救いのために命を捧げるように自分にも命ずる神は、不都合な神なのである、と教皇は語られた。
主イエスの御前に立ち、「社会週間」においても議論されたような多くの社会的・政治的問題や、人々の具体的な生活の苦労を考えながら言えることは、「このつまずきとなる信仰こそが、今日のわたしたちに必要」ということである、と教皇は述べ、人となられ、人間の歴史と生活の中に入って行かれる神への信仰、新しい世界の希望のパン種となる信仰、眠りかけた意識を呼び覚まし、社会の傷に指を入れ、人類の未来を問いかけさせる信仰が今必要とされていると説かれた。
わたしたちは多くの小さなことに無用に驚くが、なぜ広がる悪や、侮辱されたいのち、労働問題、移民や受刑者の苦しみには驚きもせず無関心なのか、と教皇は呼びかけながら、人と文化が交差する、この国境の都市トリエステから、平和と兄弟愛に基づく新しい文明を築いていこうとアピールされた。