教皇フランシスコ 聖母の被昇天の祭日のお告げの祈り 2024年8月15日 教皇フランシスコ 聖母の被昇天の祭日のお告げの祈り 2024年8月15日  (ANSA)

聖母の被昇天:教皇「主に従って歩み、天に上げられたマリア」

「聖母の被昇天」の祭日、教皇フランシスコは正午の祈りの集いを行われた。

 典礼暦で「聖母の被昇天」の祭日を祝った8月15日(木)、教皇フランシスコは、お告げの祈りをバチカンの広場の巡礼者と共に唱えられた。

 祈りに先立ち、教皇はこの日の福音朗読箇所(ルカ1,39-56)から、エリザベトを訪問するために旅立ったマリアを観想しつつ、説教を行われた。 

 教皇の説教の要旨は次のとおり。

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 「聖母の被昇天」の祭日を祝う今日、わたしたちは典礼の福音において、天使からお告げを受けたばかりのナザレのおとめが、従姉妹エリザベトに出会いに旅立つのを観想する。

 「出かけて、行った」(参照 ルカ1,39)という福音書の表現は美しいものである。それは、マリアが天使からの告知を自分だけのものと考えていないことを意味する。その反対に、マリアは、その喜びを他の人に伝えたいと望む人の急いだ様子と、従姉妹を助けたいという心配りをもって、家を出て、歩き始めるのである。

 この最初の旅は、実際には、マリアの全人生を表すものであった。なぜなら、その瞬間から、マリアは、神の御国の弟子として、常にイエスに従い歩む者となったからである。そして、最後には、マリアの地上の巡礼は、天に上げられることをもって完成し、そこで御子と共に、永遠のいのちの喜びをとこしえに味わうことになったのである。

 マリアを「うごかない蝋(ろう)の彫像」のように想像してはならない。マリアの中にわたしたちは「すり切れたサンダルを履き、大いに疲れた姉妹」 (C. Carretto, Beata te che hai creduto, Roma 1983, p. 13) を見ることができる。なぜなら、マリアは主に従って歩み、兄弟たちと出会い、天の栄光においてようやくその旅を終えたからである。

このように、聖なるおとめは、わたしたちに先立って歩み、わたしたちの生活もまた、主との最終的な出会いに向けた、絶え間ない旅であることを思い出させてくださる方である。

 主との出会いに向かうわたしたちのこの旅路を助けてくださるように、聖母に祈ろう。

 

 

15 8月 2024, 13:48