「この世でキリストの良い香りとなる」教皇一般謁見
教皇フランシスコは、8月21日(水)、バチカンのパウロ6世ホールで一般謁見を行われた。
教皇は、「聖霊と花嫁。聖霊は神の民をわたしたちの希望イエスとの出会いへと導く」を主題とするカテケーシスで、この日は「イエスの洗礼における聖霊」をテーマに考察された。
教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。
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今日は、ヨルダン川での洗礼においてイエスに降り、教会であるイエスのからだを通して広められる聖霊について考えよう。マルコ福音書には、イエスの洗礼の場面がこのように描かれる。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降ってくるのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(マルコ1,9-11)。
この瞬間、父と子と聖霊の三位がヨルダン川のほとりに会された。御父はその声をお聞かせになり、聖霊は鳩のようにイエスに降りられ、そしてイエスは御父からご自身の「愛する子」として宣言された。これは啓示と救いの歴史にとってきわめて重要な瞬間であった。
イエスの洗礼をすべての福音記者が語っているが、その出来事の重要さはどこにあるのだろうか。その答えは、このすぐ後、ナザレの会堂でイエスが言った言葉の中に見つけることができる。そこでイエスはヨルダン川での出来事に明らかに触れながら、次のように言われた。「主の霊がわたしの上におられる。…主がわたしに油を注がれたからである」(ルカ4,18)。
ヨルダン川で、神なる御父は、イエスに聖霊を注いで塗油し、イエスを王、預言者、祭司として聖別された。実際、旧約聖書では、王や、預言者、祭司は、香り高い油を注がれている。キリストの場合、物質的な油の代わりに、霊的な油、すなわち聖霊を注がれた。象徴の代わりに、本物が注がれたのである。
イエスは受肉の瞬間から聖霊に満たされていたが、それは譲渡できない「個人的な恵み」であった。しかし、今や、使命のために聖霊の恵みに満たされたイエスは、ご自身のからだである教会の頭(かしら)として、教会に聖霊の賜物をめぐらせるだろう。それゆえに、教会は新しい「王の、預言的、祭司的な民」なのである。ヘブライ語の「メシア」、古代ギリシャ語の「キリスト」は、共に、油を注がれた者を意味する。教父たちは、「キリスト者」を「キリストに倣う者として、油を注がれた者」と説明した。
聖書の詩編に、大祭司アロンの頭に注がれ、衣の襟にまで垂れる、かぐわしい油について歌っているものがある(参照 詩編133,2)。兄弟が共に座っている喜びを表すために用いられたこの詩的なイメージは、キリストと教会において霊的かつ神秘的な現実となった。わたしたちの頭であるキリストは大祭司、聖霊はかぐわしい油、教会はその油が広がるキリストのからだである。
聖パウロは、コリントの信徒への手紙で、「わたしたちはキリストによって神に捧げられる良い香りです」(2コリント2,5)と記している。しかし、残念ながら、しばしばキリスト者はキリストの良い香りではなく、自分自身の罪の悪臭を拡散している。しかし、だからといってそれが、一人ひとりが自分の置かれた環境で、この世におけるキリストの良い香りとなる、という崇高な召命を実現するためのわれわれの努力をそらすことになってはならない。
キリストの香りは、「霊の結ぶ実」から解き放たれる。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5,22)。これらの実を育てるように努力するならば、わたしたちの知らぬ間に、誰かがわれわれのまわりにキリストの霊の香りを感じるだろう。