教皇「真の力は支配の中ではなく、思いやりの中に」
教皇フランシスコは、9月22日(日)、バチカンでお告げの祈りの集いを持たれた。
年間第25主日、祈りの前の説教で、教皇は、この日の福音朗読箇所(マルコ福音書9,30-37)を取り上げられた。
そして、だれがいちばん偉いかと議論していた弟子たちに対し、イエスが一人の子供の手を取り彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(同9,37)と言われた場面を観想された。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
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今日の典礼の福音(マルコ福音書9,30-37)で、イエスはご自身の人生の頂点で何が起きるかを告げている。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」(マルコ福音書9,31)。しかし、師の後を歩みながらも、弟子たちの頭と口は別のことで占められていた。イエスが何を議論していたのかを尋ねても、彼らは答えなかった。
この沈黙に注意しよう。弟子たちが黙っていたのは、だれがいちばん偉いかを論じ合っていたからであった(参照 同9,34)。主の言葉とのなんという対比であろうか。イエスがご自身の人生の意味を弟子たちに打ち明けられた時、弟子たちは権力について議論していた。
今、弟子たちは、恥ずかしさのために口を閉ざしている。イエスは道中、弟子たちに「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(参照 同9,35)とはっきり言われた。偉くなりたい者は、小さくなり、皆に仕えなければならない。
単純かつ明白な一言によって、イエスはわたしたちの生き方を新たにされる。真の力とは強力な支配の中ではなく、最も弱い人たちへの思いやりの中にあるとわたしたちに教えられる。
師イエスが一人の子供の手を取り彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(同9,37)と言われたのはそのためであった。子供は力を持たない。それを必要としている。わたしたちが人の世話をする時、人は常にいのちを必要としていることがわかる。
わたしたちが皆生きているのは、わたしたちが受け入れられたからである。しかし、権力はこの真理を忘れさせてしまう。そして、わたしたちは仕える者ではなく、支配する者になろうとする。そこで最も苦しむのは、まさに小さく、弱く、貧しい人々である。
どれだけの人が権力の闘争によって苦しみ、命を失っていることだろう。それは世がイエスを拒絶したように、世に見捨てられた命である。イエスが人々の手に渡された時、そこにあったのは抱擁ではなく、十字架であった。しかし、福音は生きた、希望に満ちた言葉である。人々から拒絶された方、主は復活された!
では、ここで自問しよう。最も小さき人々の中に、わたしはイエスの御顔を見出しているだろうか。隣人を思いやり、寛大に奉仕しているだろうか。また反対に、わたしに手を差し伸べてくれる人に感謝しているだろうか。
わたしたちが、マリアのように虚栄に染まらず、奉仕に備えた者となれるように、マリアと共に祈ろう。