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バチカン・パウロ6世ホールでの教皇一般謁見(写真資料) バチカン・パウロ6世ホールでの教皇一般謁見(写真資料)  (Vatican Media)

教皇、イエスとニコデモの出会いを考察、一般謁見カテケーシスで

教皇フランシスコが、3月19日(水)の一般謁見で予定していたカテケーシスのテキストが、バチカン広報局より発表された。

 ローマの病院に入院中の教皇フランシスコが、3月19日(水)の一般謁見のために予定していたカテケーシスのテキストが、バチカン広報局を通して発表された。

 2025年の聖年のための「わたしたちの希望、イエス・キリスト」をめぐるカテケーシスは、前回「I.イエスの幼少期」の考察を終え、今回から新しい章「II.イエスの生涯。出会い」に入った。

 この日はその初回として、ヨハネ福音書3章に記される、イエスとニコデモとの出会いを取り上げている。

 カテケーシスの要旨は次のとおり。

********** 

 このカテケーシスと共に、福音書に語られるいくつかの出会いを観想しよう。そして、イエスがどのように人々に希望を与えるかを理解しよう。事実、人生を照らし、希望をもたらす出会いというものがある。たとえば、わたしたちが経験している困難や問題を、別の視点からとらえるように助けてくれる人がいるかもしれない。あるいは、わたしたちが体験している苦しみの中で、自分を独りぼっちだと感じさせないような言葉を誰かがかけてくれることがあるかもしれない。また、時には言葉のない静かな出会いが、わたしたちの再出発を助けてくれることもあるだろう。

 最初に考察したいのは、ヨハネ福音書3章に語られる、イエスとニコデモとの出会いである。このエピソードから始めるのは、ニコデモは、闇から抜け出しキリストに従う勇気を得ることは可能だ、と示してくれる人物だからである。

 ニコデモは、夜、イエスのもとへ出かけて行った。それは人と会うには変わった時間であった。福音記者ヨハネの表現で、時間についての言及は、しばしば象徴的な意味を持っている。ここでは、夜とはおそらくニコデモの心にあるものだろう。自分の人生に何が起きつつあるのかもはや理解できず、行くべき道がよく見えない時に経験する、疑念の闇の中にニコデモはいた。

 人は暗闇にいる時、当然、光を探す。ヨハネは福音書の冒頭でこう記している。「その光はまことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハネ1,9)。ニコデモは、イエスが自分の心の闇を照らしてくれると直感し、イエスを求めたのである。

 しかしながら、ニコデモがイエスの言われたことをすぐには理解できなかった様子を福音書は語っている。このように、イエスとニコデモの対話には多くのすれ違いがあり、また福音記者ヨハネの特徴である、多くのアイロニーが見られる。ニコデモがイエスの言われることを理解できなかったのは、彼の論理とカテゴリーで考え続けていたからである。ニコデモはその人となりをよく知られた、公の役割を担う、ユダヤ人の指導者の一人であった。しかし、おそらくそれに見合うだけの充足は得られなかった。ニコデモは自分の人生において何かがうまくいかないことを感じていた。彼は何かを変える必要に気づいたが、どこから始めるべきかがわからなかった。

 人生の折々、これはわれわれ誰にでも起こりうる。変わることを受け入れず、頑なに普段の習慣や自分の考え方に閉じこもるならば、死に至りかねない時がある。人生は、新たな愛し方を見出すために、変わっていく能力にかかっている。

 実際、イエスはニコデモに新たに生まれることについて語っている。それは可能であるのみならず、わたしたちの人生のある時には必要なことでさえある。福音書に使われている表現、anōthen(アノーテン) は、「上から」と「新たに」の二重の意味を持っている。ニコデモは次第にその二つの意味が共にあることを理解するようになるだろう。聖霊にわたしたちの中に新たないのちを生んでいただくならば、わたしたちは新たに生まれることになる。そして、わたしたちは、おそらく消えかけていたいのちを、再び見出すのである。

 このカテケーシスの新しい章をニコデモから始めようと思ったのは、彼がその人生を通して、変わることは可能だと示した人だからでもある。ニコデモにはそれができるだろう。最後には、彼はイエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た者たちの一人となった(参照 ヨハネ19,39)。ニコデモはようやく光のもとにやってきた。すなわち彼は新たに生まれたのである。彼にはもう闇の中にいる必要はなかった。

 わたしたちは時に変化を恐れる。一方では、わたしたちは変化に惹かれ、それを望む。しかし、その一方で、自分たちの安楽に留まっている方を好むこともある。それゆえに聖霊は、この恐れに立ち向かうようにとわたしたちを励ます。イエスは、「イスラエルの教師」であるニコデモに、イスラエルの民でさえ荒れ野を歩みながら恐れを抱いたことを思い出させている。彼らは自分たちの不安にあまりにも囚われていたために、その恐れは毒を持つ蛇の形をとった(参照 民数記21,4-9)。その蛇を取り除くには、彼らはモーセが旗竿の先に掲げた青銅の蛇を仰ぎ、彼らの恐れを象徴する蛇の形をした物を見つめなければならなかった。自分たちを恐れさせるものと正面から向き合うことで、そこからわれわれの解放が始まるのである。

 ニコデモは、わたしたち皆と同様、十字架につけられたキリストを、われわれのすべての恐れの根源である悪に打ち勝ったお方を、見つめることができた。わたしたちもまた、貫かれたお方に眼差しを向けることで、イエスの方からわたしたちに出会っていただくことができる。そして、わたしたちはイエスの中に、人生の変化に立ち向かい、新たに生まれる希望を見出すことができるのである。

20 3月 2025, 16:02

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