カンタラメッサ枢機卿の小さな黙想・第4回
教皇付き説教師ラニエーロ・カンタラメッサ枢機卿は、復活祭に備えるための期間、四旬節に、イエスの言葉に改めて耳を傾け、その一つひとつを噛みしめるようにと招いている。
同枢機卿がバチカン・ニュースのために用意した6つの小さな黙想の中から、今回はその第4回目をお届けする。
カンタラメッサ枢機卿はここで、ヨハネ福音書の「姦通の女」のエピソード(ヨハネ8,1-11)を取り上げている。
このエピソードでは、姦通の現場で捕らえられた女を前に、ファリサイ派の人々が「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じている」と言いながら、イエスの考えを問うが、イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われた。
一人、また一人と、すべての者が立ち去った後、イエスは「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」と言われた。女が「主よ、だれも」と答えると、イエスは「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われた。
同枢機卿は、この黙想で、「これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ8,11)というイエスの言葉を通し、自分の心をよく見つめるように勧めている。
カンタラメッサ枢機卿の小さな黙想・第4回目の内容は次のとおり。
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今日、受け止めたいイエスの言葉は、「姦通の女」を訴えていた者たちが立ち去った後で、イエスが女に向けた言葉です。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」「主よ、だれも」「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。
「これからは、もう罪を犯してはならない」。わたしたちも皆、よく自分を問いただせば、犯しがちなたくさんの罪の隣に、他とは異なる形の罪があることに気づくでしょう。それは、密かに執着し、告解はしても、本気で止める意志の無い罪のことです。
聖アウグスティヌスは、『告白』の中で官能の罪との戦いについて記しています。それは彼が「わたしに貞潔と節制をお与えください」と神に祈っていた時のことです。しかし、それに対し一つのささやきが「主よ、すぐにではなく」と付け加えるのでした。
しまいには、自分に対して叫ぶ時がやってきます。「なぜ明日なのか?」明日という言葉はラテン語でcrasと言います。「なぜcras(明日)というのか。なぜ今ではないのか?」自由を味わうためには、「もうたくさんだ!」と叫びさえすれば十分なはずです。
では具体的にどうしたらいいのでしょうか。ただちに神の御前に出て、話しかけるのです。「主よ、あなたは私の弱さをよくご存知です。それゆえ、あなたの恵みだけを頼りに申し上げます。今後、あの満足、あの放縦、あの友人関係、あの怨恨、あの財政上のごまかし、等々、わたしが自覚し、あなたもご存知のあの罪はもうたくさんです。あなたの赦しの秘跡に与りに参ります」
あなたはまた罪に陥るかもしれません。わたしたちも再びつまずくかもしれません。しかし、神のために何かが変わりました。あなたの自由は神を味方につけたのです。今や、あなたは神と二人で同じ敵に立ち向かうのです。罪の隷属から解放され、神と自分自身と平和のうちに生きることが、いかにずっと素晴らしいかがわかるようになるでしょう。