「マルタ共和国への司牧訪問を終えて」教皇一般謁見
教皇フランシスコは、4月6日、バチカンのパウロ6世ホールで、水曜日恒例の一般謁見を行われた。
先日マルタ共和国を訪れたばかりの教皇は、この日の謁見のカテケーシスで、同国への2日間の司牧訪問について報告された。
教皇のカテケーシスの要旨は次のとおり。
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4月2日(土)、3日(日)にマルタを訪問した。これは以前から計画されていたものであった。マルタは地中海の中の島でありながら、非常に早くから福音が伝わった。それは使徒パウロがその沿岸近くで遭難したからであった。その船には二百人以上が乗っていたが、奇跡的に全員が助かった。「使徒言行録」は、マルタの人たちが全員を「大変親切に」(使徒言行録28,2)もてなしたことを語っている。
「大変親切に」、わたしはこの言葉を今回の訪問のモットーに選んだ。なぜならそれは移民現象に対応するためだけでなく、もっと一般的な意味で、より兄弟愛に満ちた生きやすい世界のために、またわたしたち皆が乗った船が「遭難」しないために、進むべき道を示しているからである。
マルタはこのような視点において、鍵となる場所である。それはまずヨーロッパとアフリカの間に位置し、アジアとも海を隔てて接する、その地学的な位置による。マルタは一種の羅針図(コンパスローズ)である。そこでは人と文化が交差し、地中海を360度見渡すことができる。
今日、よくジオポリティックスという言葉を聞く。しかし、残念ながら、その主な論理は、力ある国々が自分の利益を確かにするために、経済・イデオロジー、軍事上の影響の及ぶ地域を拡大するという戦略的なものである。
こうした構図の中で、マルタは小さな国々の力と権利を代表している。それは小さくても豊かな歴史と文明を持ち、尊重と自由、多様性の共存の論理を持ち、強国の植民地主義に対抗するものである。
第二次世界大戦後、新たな平和の歴史の基礎を築くことが試みられた。しかし、残念なことに、競争関係にある大国同士の古いストーリーの延長があるだけだった。さらに、現在のウクライナにおける戦争において、わたしたちは国連の組織の無力さを目の当たりにした。
次に、マルタは移民現象においても鍵となる場所にある。マルタの移民センターで出会った移民たちは恐ろしい旅の後、マルタ島にたどり着いた人々である。これらの人々の体験に耳を傾けることで、一人ひとりのストーリーや苦しみや夢を知ることができる。彼らのそれぞれが尊厳とルーツと文化を持っている。
もっとも、移民の受け入れは、あらかじめ国際レベルで共に計画され、組織・管理されるべきである。移民現象は一時の危機ではなく、今日の一つのしるしである。それは対立のしるしとも、平和のしるしともなりうる。それはわたしたち次第である。
訪問した移民センターは「ヨハネ23世・平和のラボラトリー」と名付けられていたが、マルタ全体が「平和の実験室」と言えよう。そして、その使命は、福音から受けた兄弟愛といつくしみ、連帯の価値を持ってこそ、実現することができるだろう。
実際、マルタは「福音宣教」の観点からも、鍵となる場所である。マルタからは多くの司祭、修道者、また信徒が宣教者として旅立ち、全世界にキリスト教的証しをもたらしている。まるで、聖パウロが、マルタの人々の中に宣教のDNAを遺したかのようである。
しかしながら、マルタにも世俗化と、消費主義やネオ・キャピタリズム、相対主義をベースとした偽文化の風が吹いている。それゆえ、マルタも新たな福音宣教の時を迎えている。
マルタで訪れた「聖パウロの洞窟」では、同国のキリスト教伝来の時代と人々の信心の源泉に触れる思いがした。また、ゴゾ島のタ・ピヌ巡礼聖堂では、マルタの人々が聖母に寄せる大きな信頼を感じた。
マリアはわたしたちを十字架上で死に復活したキリストとそのいつくしみの愛という本質に連れ戻してくれる。マリアは、聖霊の火によって、信仰の火をかき立てるのを助けてくれる。聖霊は世紀にわたり、福音を喜びをもって告げることを励まして来た。なぜなら、教会の喜びとは福音宣教にあるからである。
この場を借りて、マルタの大統領はじめ、政府・教会関係者、ボランティア、そして祈りをもってこの訪問を見守ってくださったすべての皆さんに改めて感謝したい。また、移民センター創立者のフランシスコ会士、ディオニスス・ミントフ神父(91)の熱心な使徒職、移民への愛に言及したい。わたしたちは種をまくが、それを育ててくださるのは主である。主が限りない優しさをもって、愛するマルタの人々に平和と善の実りを豊かにもたらしてくださいますように。