「洗礼の日は、新たな誕生の日」教皇、お告げの祈りで
教皇フランシスコは、1月7日(日)、バチカンで正午の祈りの集いを行われた。
「主の洗礼」を祝ったこの日、教皇は、朝、バチカンのシスティーナ礼拝堂で幼児の洗礼式をとり行われた。そして、正午、お告げの祈りを巡礼者と共に唱えられた。
この祈りの集いにおける教皇の説教の要旨は次のとおり。
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今日、わたしたちは「主の洗礼」を祝う(マルコ1,7-11)。イエスが洗礼を受けられたのは、ヨルダン川のほとりであった、そこでは洗礼者ヨハネが、罪の放棄と、回心の努力を表す、清めの儀式を人々に行なっていた。人々は謙遜で誠実な気持ちで「裸の魂と裸足をもって」そこへ行き、洗礼を授かった。イエスもまたそこへ行くことで、宣教を開始された。イエスは自ら洗礼を受けることで、罪びとに寄り添う姿勢、彼らのため、わたしたちのためにこの世に来られたという使命を表された。
まさに、その日、いつくかの特筆すべきことが起きた。洗礼者ヨハネは自分よりも「優れた方」が後から来られること(マルコ1,7)、その方は聖霊で洗礼をお授けになること(同1,8)を告げた。さらに、天が裂けて“霊”が鳩のようにイエスに降って来た(参照 同1,10)。そして、天から御父の声が聞こえた。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(同1,11)。
これらの出来事は、イエスが神の御子であることを啓示すると共に、わたしたちの洗礼が、われわれを神の子にするものであることを教えている。
洗礼を通し、神はわたしたちの中においでになり、わたしたちの心を清め、いやしてくださる。神はわたしたちを永遠にご自分の子、民、家族、天の国を受け継ぐものとしてくださる。神はわたしたちと親しい関係になり、決してわたしたちを置き去りにしない。
そのために、洗礼日を覚えていることは大切である。なぜならそれは新たな誕生の日だからだ。洗礼を通して、あなたは恵みのいのちに生まれたのである。洗礼を神に感謝しよう。また、あなたを洗礼盤に導いた両親、洗礼の秘跡をとりおこなった司祭、代父や代母、自分が洗礼を受けた共同体にも感謝しよう。
ここで自問しよう。わたしは洗礼がもたらす無限の恵みを自覚しているだろうか。自分の人生に、わたしを子として愛してくださる、神の現存の光を認めているだろうか。
洗礼の記憶のうちに、わたしたちの中に神の現存を受け入れよう。十字のしるしをもって、わたしたちを愛し、わたしたちと共にいることを望まれる神の恵みを思い出そう。さあ、一緒に十字のしるしをしよう。「父と子と聖霊のみ名によって」。